私の5年戦争

 中ゼミの第一印象は「怪しい」であった。古めかしい校舎、なんだかうさんくさいホームページ、河合塾やECCに比べれば低い知名度…ためらった。心が清らかならば、多分このような些末なことは気にならないのだろう。いぶかしむ私を引き留めたのは合格実績であった。例年、経済系の学生は多くて100人ほど。旧帝国大学には、30人近くの合格者を出している。しかも合格者の重複はそんなにないと、入学相談の際に先生に聞いた。2月の中旬だったと思う。

 勉強について書こう。まずは私の受験開始時のスペックだ。

①在籍大学・学部武蔵大学経済学部金融学科(偏差値55ぐらい)

②英語記述が壊滅的(TOEIC590)

③経済学多少覚えがある

④数学元理系なので苦手意識は薄かった

このような状況から私はプレ学期(2月下旬)から受験をスタートした。

 経済学は中ゼミのテキストしかやっていない。英語は千頭和先生の指示に従い、テキストに加えて参考書を何冊かこなした。それだけだ。それで十分と言われたからだ。だから私は基礎以上は頑張らなかった。これは単に編入試験が簡単だと言っているのではない。編入の目的は何かという根本的問題なのである。F1には「一般人にとってマシンは棺桶」という言い方がある。最速300キロの棺桶、もとい、F1マシンを操る非一般人(レーサー)も、最初は50キロも出ないカートから選手生活をスタートさせる。大学では基本的に3年生から専門教育が開始される。3年次編入を行う大学はカートを上手く操る人間がほしいのである。F1マシンに乗るのは編入後の話だ。

 問題は各大学が求める「基礎の領域」である。これは難易度とも言い換えられる。今だから自虐として告白できる。第一志望・京都大学はこれが広かった。私は出願直前になっても歯が立つ見込みがなかったため、受験を断念した。私の努力不足と認識の甘さと言わざるを得ない。TOEICは590から720まで上がったものの、経済経営英語では本当に時々番号が載る程度(一度だけ名前が載ったときは喜んだものだ)。また算数が予想以上になまっていたこともあり、経済学よりも計算の練習をした。小学生か。その上、小論も波が激しく武器にはならなかった(先生評によれば、[不調時はバットを持たずにバッターボックスに立っている])。そんな中、幸い、経営学と時事経済だけは私を見捨てなかったので助かった。どちらも暗記が中心だったので、若かりし頃日本史オタクだった泓は「気合と根性」で取り組むことができたのだ。このような惨状で、私は無謀にも有名国立を中心に6校を受験し、まぐれで東北大学にだけ合格した。そう、前段落であれほど大口を叩いたくせに一校だけである。私は基礎すらままならなかったのだ。

 編入受験生に受験生活について聞くと大抵「辛かった」と返ってくる。私はというと、楽しかった。酒も飲んだ。サークルの合宿にも行った。資金集めのためにバイトもした。しかも6月まで。受験を舐めているとしか言えない(そのツケは見事に結果に反映されている)。ここで重要なのは、私が楽しかったのは単に遊んでいたからではないということだ。前述の通り、私はバイトをしてプレ学期の資金から各大学の受験費用まで約100万円を貯めた。また故郷を離れ一人暮らしをしていた。つまり、勝手に受験生になったのだ。だから私はこの一年を純粋に楽しんでいた。全て私のためである。誰のためでもない。自分で何とかしなくてはならない。誰も助けてくれない。そして今自分は人生を変えるために頑張っている。このシチュエーションに興奮していたのである。

 そういうわけで私は、中ゼミで丸々一年、割と楽しく受験生をやってきた。その中で気付いたことは中ゼミが大学なみの「人種のるつぼ」であることだ。抜群に英語が得意な学生、とにかく努力する学生、最初からMARCH以上の大学の学生、元社会人の学生、不思議な学生。先生方も特徴的な方ばかりだ。事務の方も含め、中ゼミに関わる人と出会えたことは素晴らしい経験であった。縁が続いてほしいと思う。

 最初は怪しいと思った中ゼミも、今や人生の分岐点を過ごした思い出の場所となった。スポーツに打ち込み全落ちした現役時代。早稲田という目標を持ち人生で初めて勉強した一浪目。早稲田への「あと4点」を追った二浪目。資金集めのため働いて過ごした大学一年。そして編入の一年。合計5年。今まさに、これを書き終えることで、私の長い長い受験戦争は終わったのだ。

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