「研究テーマ」を決める その2――どこに注目してノートをとろう?

ご無沙汰しております、しらのです。

文系3年次の編入試験は佳境に入ってまいりました。2年次志望の方は、逆にそろそろギアを上げはじめている時期でしょうか。

今回はそんな中で、再度志望理由書関連になりますが、「テーマ設定の自己検証」を主題としたいと思います。二つ前の記事で「研究テーマ」について第一弾の記事がありましたが(https://www.chuo-seminar.ac.jp/blog/literature/?p=992)、(3) の「ノートを作る」の作業中ではいくどかテーマを設定し直すということもざらにあります。今回は「多神教と寛容の関係」を素材として、「ノートを作る」方針を一緒に考えていきましょう。

 

国際基督教大学の森本あんり先生が、昨年2月に「「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか」(https://toyokeizai.net/articles/-/409378)というテーマで記事を書かれています(記事内にもあるように、正確には先生の著書『不寛容論』の抜粋記事になります)が、このテーマで論じるには「何を調べればよいか」を考え、そして追体験することが、「ノートを作る」方針を考える上での好材料となるでしょう。この記事をある程度下敷きにして、議論を進めていきます。

 

①「多神教→寛容」など、事実関係を統計資料などから調べる

やや社会科学寄りの分析になりますが、やはりまず気になるのは「「日本人は寛容」という命題自体は事実か」ということです。判定基準がなかなか難しいですが、上記事ですでに触れられている堀江宗正先生の分析のように「世界価値(観)調査」(En: https://www.worldvaluessurvey.org/wvs.jsp)など、研究機関や行政機関の調査・資料で通説の裏づけになるものがないかを探してみる、というのは重要です。私たちの通説や直感が、つねに事実と整合的であるとは限らないからです。

とはいえ、もちろん堀江先生の分析はあくまで「宗教的寛容」について結論を出しているだけなので、これだけで日本人の「寛容」度についてなにか確定的なことがわかるわけではありません。このケースでは「自分が明らかにしたい事実」と「調査・資料から明らかになる事実」の整合性や距離を、しっかり測ることが求められます。

 

②「寛容」など、言葉が実際に意味する内容にこだわり比較してみる

①の最後の話とも関わってきますが、時には言葉の意味を掘り下げることも重要です。

たとえば、「多神教」が示す寛容さと、「日本人は寛容」と言うときの寛容さは、果たして同じものなのか。日本の多神教的かつ異種混淆的な性質を示す事例として有名なのは七福神ですが、恵比寿様以外の六神は海外の神が日本の神様としてカスタマイズされたものです。日本の神様になったと言っても出身国での神格が消えたわけではなく、どちらかというと「カレーライス」や「ラーメン」など、異文化の料理がジャパナイズされる事態と似ています。

しかし「日本人は寛容」と言うときは、森本先生も同様のことを指摘されていますが「異なる文化や出自の人に対して争わないようにする」という風に、たいていは異文化の人が「ジャパナイズ」されることは想定されておらず、むしろ「異なる」こと自体が重視されるでしょう。私たちが「寛容」を説くとき、相手に「カレーライス」のようになってほしいとは思っていないはずです。

こうしてみると、二つの「寛容」がどこまで、どのような点で似ている/違っているのかを検討する作業も、馬鹿にはできません。

 

③「多神教」の根拠となる、原典を参照してみる

もう一つアプローチが考えられます。それは、「多神教」と、通説により暗に批判対象とされている「一神教」という区別が寛容を論じるのに有効なのか、原典を踏まえて考えてみることです。基本的には、「多神教」とは一神教で言うところの唯一神がたくさんいる、という事態を指しているのか、つまりは、一神教の「神」と多神教の「神」が比較可能なものなのか、という疑問が以上の問いの根幹をなしています。森本先生が指摘されるようにそもそも多神教の定義自体が難しいという問題もありますが、ひとまず軽く分析してみましょう。

まず多神教とされる神道において、神典とされる書物の一つである古事記を紐解いてみましょう。上巻の中ほどには、有名な「天岩戸」の物語が記されています。簡単に要約すると、太陽神である天照大御神が、弟である須佐之男命(スサノオノミコト)の度重なる狼藉に恐れをなして天岩戸にこもったことで、天地がともに真っ暗になってしまいます。そこで八百万の神が天岩戸の前に集結し、真っ暗な中でにぎやかな騒ぎを起こして、天照大御神に怪訝に思わせます。そこで外を覗いた大御神を中から連れ出して光を取り戻し、事なきを得る、といった次第です。

騒ぎの中心にいた天宇受賣命(アメノウズメノミコト)は大御神とのやりとりの中で、「あなた様よりも尊き神がいらっしゃったので、にぎやかにしているのです」と(うその理由を)答えています。こうしたことからも、日本の神々の中に役割分担、そして上下関係があることが見て取れます。天照大御神はしばしば「主神」「皇祖神」とも呼ばれますが、八百万の神が集まらねばならなかったくらい格の違う神様が描かれているということは、特筆に値することでしょう。

翻って一神教であるキリスト教の聖書などを開いてみたときには、神は唯一神しか認められないものの、天使や悪魔など神以外の「霊的存在」も多数存在することに注目すべきでしょう。もちろん信仰上では、「崇拝対象になるか」という点で大きな違いはあるかもしれません。しかし、『詩編』などで示唆される各人に寄り添う守護天使の存在などを考えてみるに、その存在が多神教の神々と比較可能ではないか、という問いは無視できないものです。主神をいただく神道と、唯一神以外の霊的存在も認めるキリスト教との間に、私たちがふだん想定しているほどの違いがあるのかは、再考の余地があるように思えます。

このように「神やそれに類した存在」についてイメージだけで語ることのないよう、原典に当たって「どのように描かれているか」を確かめることも、有効な手段なのです。

 

以上、「統計資料の確認」「言葉の意味内容に関する具体例の検討と比較」「原典の参照」、この三つが「テーマの再検証」にあたって重要であることを示してきました。今回は「多神教だから寛容」という通説を素材としましたが、もちろんみなさんが何気なく建てるテーマに関しても同じことが言えるわけです。

上記の行程を行ないながらノートをとっていけば、みなさんのテーマがより地に足のついたものとなり、志望理由も充実したものとなるはずです。「自分の関心について掘り下げ、調べてみること」が、面接官にとっても説得力のある志望理由を提示するカギの一つと言えます。

 

余談ですが、私は多様性について考えるとき、最近「ハコの中の多様性」というイメージをしばしば思い浮かべます。私たちが多様性について何がしかを問題にするときには、本当は多様性そのものではなく、多様性を受け入れている/いない、その社会的土台について問うている、ということです。

とはいえ、その「ハコ」がなければ多様性というものは実現しません。キャパシティの問題だったり社会通念の問題だったりで、受け入れには自ずと制限がかけられます。だからこそ、寛容にしろ多様性にしろとりあげられるときには、その「ハコ」のあり方が問われているのだと、そういう意識が必要でしょう。

そうした考えからすると、「多神教」という粗雑な枠組みに日本の「寛容」の姿勢を押し込めてしまうことには、あまり益がないと結論づけられます。