うさん臭い独り言「受験体験記」

編入試験は、しばしば「学歴目当て」だとか、或いは「センター試験も受けずに楽して入学した」などと揶揄されることがあると思います。事実、志望校に受かってまさにその大学の教育学部にいますが、そこでも編入生をよく思っていない人も確かにいます(そしてまた逆に「目的意識を持って入学していて凄い」と思っている人がいるのも事実ですが)。
かく言う自分はどうかというと、今でこそ単純に学問するのが楽しいという感じになりつつあるが(あくまで「なりつつ」あるだけですし、自分の中に「学問」という崇高なものがあるとは言い切れませんが)、キッカケそのものは単なる「学歴目当て」の人間でしかありませんでした。この辺りを話すと長くなるのですが、簡単に言えば、志望校に落ちて滑り込んだら、やっぱり学歴コンプレックスになってしまって、その後に仮面浪人してもやっぱり志望校にも落ちて――という事情で編入の「勉強」を始めたのであって、さしたる「目的意識」などなく、俗な、いわゆる「学歴コンプ」程度の「目的意識」しかありませんでした。
ただし今では、「学歴」だけを求めて編入したという事実に関して、例え人から揶揄されても、「その通りです」と開き直ろうと思っています。それは、編入学という試験制度が傍系進路である(と私は認識しています)からです。
つまり、センター試験や私学の一般試験を受験して入学する正系ルートではなく、小論文と英語(と面接)という僅かな科目で横から滑り込んで、卒業学歴に輝かしい「高学歴」を手に入れるという意味では、言ってしまえば「卑怯」なライフコースとすら思っていますし、事実そう思われている節があるのは否定できない事実だと思います。つまり、例えそれが正規の制度であるとしても、それが現実的にどう思われているかは、違う話だと思うということです。
認識レベルでは、実際に私の周りにも、編入生を良く思っていない人もいます。しかし、そういったライフコースを歩んだが故に見えてくるものもあると思っているし、事実、それは大学に入ってから確信に変わっています。当時、耐えられないほど嫌な(と思った)大学で見た世界は、恐らく今の大学の人たちはあまり縁の無い世界だと思っています。周囲とのその経験の差異は、傍系であるが故のアイデンティティとなり、自分自身が取り組みたいテーマに対する興味を加熱してくれる機能を持ち、今では――語弊を承知で、やや大袈裟な言い方をすれば――私の「構成要素」の一つとなっています。
結局のところ、編入の「受験体験」で得たもの(こと)は、これに集約されると言ってよいと私は思っています。傍系進学であるが故に、自分自身は特殊なのだと自ら積極的に認識して、開き直る。こうすることで、受験というものの捉え方が非常に楽なものになり、受かるとか落ちるとかそういう問題以上に、受験勉強そのものが「楽しい」と思えるようになり、そして今現在学部で学んでいること自体も非常に「楽しい」と思えています。
一般的に受験は「苦しいもの」として認識されるものだと思いますし、事実そうだと思います(実際、私も相応の「受験勉強」は編入の過程でもしました)。しかし、それ以上に「楽しい」と思える要素がそこにあるのであれば、仮にそれが「合格」への遠回りだとしても、その道を突き詰めてみるのも、また重要なことではないかと思います。つまり、「学歴」獲得への最短ルートを敢えて避けることによって、もしかするとそのルート自体が最短ルートになる可能性もあるのではないか、と個人的には思うからです。これは私自身の編入の「受験体験」から思うことなのですが、知識を詰め込み、合理的に合格するための最短ルートを走る正攻法を自分がこれから受験するのが「編入」であるとの認識を強く持って拒否することこそが、ある意味で編入の「合格」の最短経路なのではないかとすら思うのです。
勿論、これは私見でしかありませんが、しかしながら、遠回りすることと試験とその対策そのものを楽しむことは、事実として現在入学後の生活に於いて非常に有効な機能を持って自分の中に残っています。
「受験体験」を通じて思うことは、とどのつまり、キッカケは不純であっても、手段は「正統」――私がここでカッコをつけるのは今日的な受験では、これは正統と思われていないのではないか、と勝手に思っているからです――であれば、自ずと結果はついてくる――逆に言えば、絶対に「正統」でなければいけないということです。
編入という傍系の進学経路を辿ることで、それまでの自らの全ての「受験体験」を相対化し、そしてラディカル――ラディカルとは「事物の根源から」という意味があります――に学べば、必ず結果はついてくるものと思います。仮にそれが単なるディレッタント(好事家)であったとしても、勿論それは構わないと思います。スノッブであったとしても、構わないと思います。ただ、自分がディレッタントであり、スノッブであるということを認識していさえすれば、多少は問題ないものと思います。
丸山眞男は、『丸山眞男集第四巻』(岩波書店)の「勉学についての二、三の助言」でこう述べています。
「学問に打ちこむということは実に苦しいことであり容易ならぬ知的な勇気を必要とします。そうした認識への情熱を経験しない人は、何年学校に居てもついに学問の何たるかを理解しない人です。」
中ゼミでの1年間を「苦し」くて――そして何よりも楽しい一年にして下さい。
ある作家の言葉ですが、「楽しく生きるためにはエネルギーがいる」のであり、それは「闘い」です。しかし、それは苦しさ以上に、楽しいことだと私は一年を振り返って、改めて思います。

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