怠け者の日々

 私が編入を志した最も大きな理由は学歴コンプレックスです。そして編入志望者のほとんどが、多かれ少なかれ同じ思いを抱いているでしょう。それは極めて自然な感情で、不純な動機だと引け目を感じる必要はありません。そして、綺麗事なんて所詮気休めでしかありません。なぜって、それは根本的な解決になっていないから。そもそも私が全体的に自分に自信がないのは、元を辿れば受験での成功体験が欠如していることに原因があると自己分析し、ならばこの際全部まとめて清算しよう。というのが私が編入を企てた動機です。
 私にとって学歴とは、「頑張った証を得ること」。そして編入は、「過ぎ去った時間を悔やむのをやめて、前に進むこと」でした。これまでだって何度もチャンスはあったのに、努力するのがいやでずっと逃げてきました。努力ができない怠け者の自分、そのくせプライドだけは人の何倍もある自分がなによりも嫌いでした。自分には学力も体力も気力もないから編入なんてできっこないと決めつけ、自分の本当の気持ちに目を背けていました。ですがついに、積りに積もった感情を無視しきれなくなったのです。私にとっては「抜け出したい大学」でも、他の知らない誰かにとっては「恋焦がれても叶わなかった場所」かもしれない。何の努力もしないで今いる場所に居座る自分は、そうした誰かの気持ちまでも無意識のうちに踏みにじっている。よりよい環境で学びたいという気持ちに一点の曇りもないけれど、その気持ちを盾にして、周りにも自分自身にも嘘を重ね続けるのは、あまりにもつらくて耐えきれない。こんな気持ちのまま今の大学に通い続けるなんてできないと思い、中央ゼミナールの門を叩きました。
 編入に受かって、私は欲した学歴と、好きなことを勉強できる環境をこれから手に入れるでしょう。しかし、ようやく克服できるかに思えた学歴コンプは消えませんでした。コンプレックスというものは、他人との比較によって生じるものです。上を見ても下を見てもキリがありません。編入は人生を変える手段ではあるけれど、自分を変える手段ではありません。編入は、受かって終わりではないのです。あのとき決断しなければ、努力しなければ、決して手に入らなかったであろう学歴は、あくまで無理を重ねて掴んだものです。編入の勉強を始める前、「周りのレベルが低い」「自分のいるべき場所はここじゃない」そう思っていました。でも今振り返れば、当時の自分は単に「身の丈にぴったりの場所」にいただけでした。それが自分の学力の限界だったのだという事実は消えません。
 「社会学が好きだから」ただそれだけであっさり試験をパスできたなら、どんなにいいでしょう。しかし現実は、そう甘くはありませんでした。結局私は最後まで、真面目な受験生にはなれませんでした。一心不乱に勉強するでもなく、編入を周囲に宣言する勇気もなく、現状を打開できるほどの力もありませんでした。様々な幸運が重なって、温かい手を差し伸べてくれる善意の人たちの協力があって、それだけで合格したようなものです。ではなぜ合格できたのかと問われれば、私はこう答えます。「ひとりだったから」と。
 私はどこまでも一人でした。編入は孤独な戦いです。周りの大学生たちがアルバイト、サークル、恋愛など、楽しそうなことをしているなか、自ら進んで受験勉強をするなんて、それはもはや修行です。「編入は実力以上の大学に簡単に入れる」これは事実でもあり、虚構でもあります。編入にもリスクはあります。だから安易には、人に勧められません。それでも、費やし失った時間の大きさと重さと、これから手にするであろう学歴と環境とを天秤に掛けると、やはり私は編入に挑戦してよかったと心から思います。しかし、誰から何と言われようとどう思われようと、自分の人生なのだから自分で考えて決めるべきです。誰も私の人生に責任をとってはくれません。周囲の雑音に惑わされることなく、淡々と黙々と、自分が今すべきことをする。思うに、編入に必要とされているのはそういうことではないでしょうか。
 ひとつひとつの小さな選択が積み重なって、人生が形作られていくのだと、編入を通じて思い知りました。欲しいものを欲しいと、嘘偽りのない本心を叫び続けることのできる人たちの今後に、どうか明るい未来が待っていますように。そういう世の中であってほしいと、私は思います。

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