後輩たちへ

 私は中ゼミに2年間通った。1年目は法学系のクラスにおり、2年目は経済系のクラスにいた。1年目の法学系のクラスにいた時は金子先生や龍崎先生の授業を受けていたので、この2年間の間に様々な社会科学の論文を書いたことになる。一通りやってみて思うのは、それぞれ論文の書き方がかなり異なるということだ。だから、今いる学部と異なる学部に行く人は大変だと思うし、1年目の私のように入ってはみたもののクラスを変えようか迷っている人は早めの決断をお勧めする。
 私の実績はひどいもので、1年目はいわゆる全落ちで、結局2年間で8校も出願して1校しか合格をもらえなかった。これらの数字だけ見るとすごくウケるのだけれど、個人的には人に笑われるような2年間を過ごしたつもりはなくて、特に2年目の時は結構力を入れて勉強した。
 1年目の最後の受験は筑波大学で、その対策で出た冬期講習のある日の事は、もう1年も前のことなのに今でも鮮明に覚えている。その教室には生徒が6人しかおらず、しかも全員が女の子だった。ほとんどの人が、年内に受かった大学をキープしつつ年明けの受験に備える人で、私のようにまだ結果を出せていない人があまりいなかったからなのか、ちょっと気が緩んだ雰囲気だった。それに加え、前日に提出された答案の出来がひどかったらしく、先生は教卓を拳で叩きながら、たるんでいる私たちを叱った。1時間はそうした状態が続いたと思う。気が付くと泣いていた。私は先生の目の前に座っていたし、とてもガサガサとティッシュを出せる空気ではなかったので、止まらない涙と鼻水をずっと袖で拭いながら、もう一方の手でペンを走らせた。泣きながら答案を書いたあの日の悔しさは、それからずっと苦しい時の自分を支えた。それから筑波大学の不合格を経て、2年目に突入し経済系のクラスでの1年間が始まった。以下では私が行ったそれぞれの科目の対策を記したい。
 まず専門つまりマクロ・ミクロについて述べたい。神戸大学の受験も考えて芦谷先生の『ミクロ経済学』や、基礎からやりたいと『経済学で出る数学』などの参考書を持っていたが、中ゼミのテキストだけで手いっぱいで全く手をつけることができなかった。後者にいたっては索引の英単語をコピーして持ち歩く状態で、もはや英語の勉強に使われていた。周囲に参考書を使っていた人は大勢いて解き方を教え合ったりしていたのだが、みんなが有効に利用できたようではなかったようなので、合う合わないがある気がする。もし参考書をやるならば遅くても夏に始めないと間に合わないので気をつけてほしい。
 答案作成の練習で慣れないうちは、「書くべきことリスト」を、レシートくらいのサイズの付箋にかなり簡略化した文章や単語でメモして時々見るようにしていた。これはマクロの文字数の多い答案の時などによくやっていた。あの長い模範解答を見て、最初は暗記しなくてはと尻込みしてしまいがちだったが、こうやって圧縮すればこんなものだ、と気を楽にしていた。それに、外してはならないキーワードの暗記を優先したかった。ミクロは、私の場合、たまに書くべき図が分からない時があったので、当たり前のことではあるが何を聞かれているのかと、それに答えるためにテキストのどこを切り取ったら良いのかに注意を払うようにしていた。さらに、専門は数式が入り、因果関係がちゃんと示せているのか不安だったので、再提出を毎回出していたが、夏期講習のラストの週は地獄だった。ラストの週の授業の再提出締め切りは9月上旬までなのだが、それまでの週の授業の再提出締め切りはラストの週いっぱいである。つまり、ラストの週は、授業を受けながらそれまでの週の授業の再提出を作成しなくてはならない。その問題のラストの週に、私は英語の授業2つ、社会時事、ミクロと4つのバラエティに富んだ授業を午前中から受けながら、マクロを始めとするそれまでの週の再提出を作成した。今考えるとよくあんなことができたなと思う。夏期講習の時間割を組む際には、くれぐれも配分に気をつけてほしい。
 続いて時事の論文についていうと、なるべくアンテナを張るようにしていた。具体的にはWBSや新聞を毎日見たり、近年取り上げられているトピックに関する新書を読んだりした。ここで言う新書というのは新しい本という意味ではなく、手のひらサイズの小さな本のことで、岩波新書や中公新書、ちくま新書などがある。
 時事の答案はけっこう自由に書ける良さがあるので、授業中からトピックをクモの巣のように頭の中でつなげる習慣をつけた。そうすると、答案を連想ゲームのようにして書いていけるので、何も書くことがないということがなくなる。今ならば、たまに答案作成が楽しいと思ったりするが、そう思えるようになるまで時間がかかった。私の場合、1年目は文の型を身に付けられず「つながっていない」とトラウマになりそうなくらい毎週コメントされた。しかし、どうしてよいか分からず、次の試験が迫って来て困った私はとにかく模範解答を書き写すことにした。1日に時事だけで答案をガリガリと10枚以上書き写すという暴挙を数週間続けていくうちに、いつのまにか文の型が身に付いていた。腕を軽く痛めたし、絶対他に何か良い方法があった気がする。それからは模範解答を読むだけになり、流れを確かめるために時々書き写すくらいになった。2年目で「つながっていない」とコメントされたのは、ついに1回に留まった。いったん型を身に付けてしまえば早いので、それまでは根気強く取り組んでほしい。
 最後に英語については、単語と授業の復習を毎日やりつつ、過去問を片っぱしから訳していく勉強をしていた。ただ、なかなかスピードが上がらないし、点数に波がありギリギリまで伸び悩んだ。もっとも神戸大学の受験直前に、荒木先生の要約演習や添削で順位が1位になったりして、最終的には自分なりにある程度力をつけたつもりだったのだが、神戸大学は不合格に終わった。英語に限らず、授業で点数が取れても本番でないのだからあまり喜ぶべきではないし、逆にいうと点数が取れなくても必要以上にヘコまなくていいと思う。私がまさにそれで、春からオロオロしてばかりいて、木下先生に何度も「慌てなさんな」「深呼吸を」と言われた。解いた過去問は水野先生の他に、授業を取っていなかったが加々美先生にお願いして添削してもらったりした。
 2年目の秋に第一志望の神戸大学の受験を終え、その不合格を知ったとき、そしてそれをお世話になった先生に伝えるとき、やっぱりつらかった。先生に「編入試験で落ちる奴なんかに泣く権利はない」と言われていたし、私も同じ気持ちでいたのだけれど、あふれる想いがあって抑えきれなかった。結果を出したかった。最後になるが、私が後輩に一番伝えたいのは、中ゼミ生の実態はそんなにきれいなものではないということだ。私のように第一志望に受からなかった人は多いし、第一志望に受かった人も、少なくとも私の周りにいた人は大変そうだった。京都に合格した子は直前に熱を出して寝込んでいたし、名古屋に受かった子は持病の発作が悪化し通院していたし、早稲田に行った人はずっとバイトと勉強を両立させていた。だから試験まで大変だと思うけれど、どうか踏ん張ってほしい。昨年の1月に京都、名古屋、北海道、法政のそれぞれに行く友人と私の5人で湯島神社に行った。5人全員が中ゼミスタッフの健康や後輩の合格を、特に口裏を合わせたわけでもないのに絵馬に書いて願っていた。それだけ1年間が中ゼミ一色に染まっていたのだと思う。先輩たちは応援しています。ぜひ合格を手にして下さい。

タイトルとURLをコピーしました