不合格体験記

 合格体験記という名前のこの文章に、おそらく多くの人は華々しい成功体験を綴るのだろう。如何に自分が壮絶な努力をしたか、幸運であったか。如何に自分が合格を勝ち取るに値する人間であるか。あるいはくどくどと使った教材や勉強法について述べるのかもしれない。努力と幸運の積み重ねが合格に繋がったのだと、お決まりのプロットで書き連ねていくのだろう。確かにそういう話は耳に心地よく読み手に希望を与える。自分も頑張ればこの人のように合格を手にする事ができるのだという明るい気持ちにしてくれる。なるほど、それは素晴らしい。だが、もしもこれを読む貴方がそういった類の希望に満ちたストーリーを求めているならば、僕の書く体験記をこれ以上読み進めるのはやめておいた方がいい。僕には、読み手を安易に喜ばせる為の文才なんてありはしないし、そうしてみようなんて思うほどのサービス精神もない。ここで僕が書き残しておきたいのは自身の敗北の物語である。

 僕は名古屋大学に合格した。当然である。それ相応の準備をしてきたのだから。英語は会心の出来で小論においても悪くない手応えであった。おそらく合格者の中でも上位であろう。

 僕は神戸大学に合格した。当然である。それ相応の準備をしてきたのだから。問題をよく見て対策を練り、経済学での失点を抑え、運良く得意分野が出題された英語や小論でも躓く事はなかった。

 僕は大阪大学に合格した。これに関しては幸運であった。もちろんそれ相応の準備をしたが、理系優遇のきつい中でも文系なりの戦い方をしっかり考えていたことと、大学受験時代の貯金が僕を救った。

 そして、僕は京都大学には合格しなかった。いけずな京女からはんなりと一見さんお断りを喰らった東京男よろしく。いや、それとも大阪で浮気をしたことを見技かれたのか。まあ、それはそれとして。僕が彼の大学から不合格を言い渡されたのは僕の準備が足りていなくて、知識不足で、能力不足だからであろうか。合格者と僕の間には明らかな知的優劣があって、それが明暗を分けたのだろうか。ある面ではその通りだ。実を言えば僕はマルクス経済学の授業を切っていた。科目数の多い大阪大学の対策に時間とエネルギーを回すためだった。今年に関して言えばそれは悪手であった。諦めずマルクス経済学を勉強してきた合格者の方に関しては、本当に心から賞賛したい。

 しかし、ここからが僕の敗北体験記のミソである。たしかに僕はマル経を切り、その面ではマル経を切らずに今年の出題傾向の運にも恵まれ合格を勝ち得た方よりも努力不足であり準備不足であり差をつけられていたが、僕と彼らの間にそこまでの能力差があった訳ではないと思うのだ。倣慢な負け犬の遠吠えだと軽く読み流してくれて全く構わない。実際これは負け犬の遠吠えなのだ。その誹りを覚悟であえて書こう。英語や近代経済学、記述力などの諸能力について総合的に見れば僕は、他の合格者に勝るとも劣らぬ位置にいた。京都大学に合格する可能性だって、他とそう違いがあった訳ではないはずなのだ。それでも僕は落ちたのだ。どうしてだろうか。本当にどうしてなのだろうか。確かに僕にだって京大に受かる未来があったはずなのに。

 僕を不合格へと導いた要因は多くあるだろう、その中で特にここに書き残しておきたいのが自身の心の弱さについてである。今まで僕は自分のメンタルを強いと思っていた。多少のトラブルには動じない。それなりのリアクションを取った方が人間らしいだろうと思い、幾分ショックなそぶりは取るが、基本的に誰に何を言われようが、バカにされようが気にしない。(だからこの文章を読む貴方が僕にどのような印象を持とうが構わない。)こんな気質故友達はいないが、それすらどうでもいいと思える不動のメンタルは、時に弱点でありながらも基本的には僕の強みであった。しかし、京都大学の試験当日、僕のメンタルは普通ではなかった。そのことに僕は試験が終わった瞬間に気付いた。不動だと格好つけていた自身の心が、ここ一番で弱さを露呈し僕の邪魔をした。

 そもそも良くなかったのは、京都大学の試験当日の朝に大阪大学の一次試験の合否結果を知ってしまったことであった。あの時は冷静で居たつもりでも、今思えば舞い上がっていた。最後の試験ということで息切れがあったことも否めない。もうこれさえ乗り切れば全ては終わるのだと、気が緩んだ。振り返ってみれば英語の答案を書いているとき、今までやった事が無いような決定的なミスをした。これまでの学生人生の中で英語は僕の得意科目であり、主砲であった。それがいざというときに役に立たなかった。経済学でも愚かしいミスをした。最後の最後で中ゼミの教えに背いてしまった。記述の解法は何度も先生が言い聞かせてくれたことだったのに。ついでにこれまで逃げてきたことのツケが回ってきていた。ははあ、なるほど、受からない訳である。あっぱれ、あっぱれ。

 勘違いしないでほしいのだが、僕が京都大学に受からなかった事を悔しんでいるかというとそうでもないのだ。もちろん悔しい気持ちが無い訳ではない。先生方にも申し訳ない気持ちでいっぱいである。合格で恩を返せないことは何より無念で辛い。しかし、僕は正直な所どこか清々しい気持ちで自分の敗北を受け入れている。僕は京都大学に合格しなかった。当然である。僕のような弱い男を、彼の大学は迎え入れるべきではない。むしろ自身の弱さに向かい合わせてくれたことを感謝したい。ありがとう京都大学。そしてありがとう中央ゼミナール。

 最後に、こんな後味の悪い不合格体験記をここまで読んでくれる心の広い後輩がいるとしたら、僕の伝えたいことは一つである。人間は弱い。君も僕も弱い。それを怖いと思ってほしい。僕の轍を踏まないでほしい。弱い自分に負けた僕のようにならないで欲しい。どうかみんなが受けた大学編入試験は全勝となり、来年の春には呑気な成功体験ばかりのつまらない合格体験記を書いて欲しい。そして、そうするためにはどうするべきなのか、よく考えてほしい。なんだか予想以上に鬱々した体験記になったが、先ほども書いたように僕の心は澄んでいる。学業も人生もまだまだ続いていくのだ。自身の未来をどう良くしていくか考える事に今の僕は忙しい。

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