波乱万丈、編入戦記

私の編入試験に向けた取り組みは実に幸先の悪い形で始まった。2012年4月の時点でアメリカの短期大学を卒業したかったのだが、学期が終わってから事務に問い合わせたところ、単位がひとつ足りなかったのだ。この問題はネット上で受講できるクラスをとることによって7月には解決するのだが、後に別の問題を生じさせた。どちらにせよ、私は4月下旬から始まった中ゼミの授業を最悪の気分で迎えることになった。なんてこったい。

さて、4月下旬に授業は始まったのだが、記憶の限りでは6月下旬ぐらいまでは他の生徒との交流はほとんどなかった。この時期で印象深かった出来事といえば、5月のTOEICで840を取ったことだろうか。2011年7月の試験で805を取ったのだが、「留学生がこれじゃちょっと物足りないんじゃない?」と思い、得点率の悪いリーディングの対策をマジメに行ったところ、リスニングのスコアががっつり上がりリーディングのスコアは下がるという珍事が起こった。結局、この5月のスコアをTOEICを利用できる大学に提出することになったのだが、英文和訳に難のあった私はこの時点でTOEICで及第点のスコアをとれたことで経済、経営、小論文といった専門科目に全力を注げるというアドバンテージを得ることが出来た。

7月に入ってからとある生徒と交流が深まり、様々な情報を交換しあうようになった。その情報の中には他の生徒の情報ももちろん含まれており、このころから他人の人間関係に半ば寄生する形で色々な生徒に接触していった。運がよいことに自分が接触を試みた生徒たちは難関国立を目指す者たちが大半であったので、同様の目標を掲げる私は受験勉強が本格化する夏期講習直前に切磋琢磨しあえる同士を労せずに得ることに成功した。棚からぼたもち。そして、このころから最初の受験校である名古屋大学に向けて志望理由書を書き始めるなど、勉強以外でも試験に向けた準備を進めていった。

しかし夏期講習の序盤、私は思いもよらぬ問題に直面した。先述したように、私は米国の短期大学卒業に必要な単位を7月に修得し終えたのだが、ここから卒業、成績証明の書類を手に入れるのに1ヶ月近くの時間を要したのだ。名古屋大学経済学部の出願の締め切りは8月20日だったので、書類が間に合わずに受験できないという最悪のパターンも想定し、「もしそうなったら、名古屋は運が悪かったと諦めよう」と開き直りもしたが、書類は8月の上旬に到着し、出願に間に合わせることが出来た。

このハラハラ出願騒動を乗り越えて受験した名古屋大学だが、英語試験で取りこぼしが多かったらしく不合格になった。しかし、私は動揺することなく、むしろ非常に落ち着いていた。「旧帝の英語では合格水準の点数は取れないか、じゃあTOEICぶつけてやるよ」といった具合に開き直り、英文和訳の授業は受け続けたものの、持てる力のほとんどを一層専門に費やしていった。このときの専門への力の入れ様は難関国立を受験する他の生徒の中ではダントツだったと思う。このある意味行き過ぎた専門科目への傾斜配分は10月に同志社大学経済学部合格という形で結実する。英語の試験の出題傾向がガラッと変わったことで英文和訳が課され、少し嫌な予感がしたもののそれ以上に専門がよく解けた。目に付く問題が語句説明、計算問わずことごとく解けたおかげで時間が足らなくなったのをよく覚えている。

自分はここで完全に流れをつかみ自信がついたようで、語句説明や計算問題が多く出題される傾向のある神戸大学の試験には「何でも来い、全部時間内に解いてやるよ。」という強気な姿勢で臨めた。実際の試験では経済は解き終わって見直ししても試験時間が余り、小論文も独創性には多少欠けるものの経営の授業で学んだ内容を生かしたものを書き上げることが出来た。これに加えて先述のTOEICのスコアである。試験が終了した後、私は合格を確信していた。そして合格した。

この時点(11月下旬)で私は第一志望群に合格し、当初の目標を達成したわけだが、東北大学の試験がまだ残っていた。 TOEICが利用できるとはいえ旧帝の一角、そして合格を勝ち取りすっかり緊張感が抜けてしまった私だったが、「現役時代の自分を思い返せばとてもじゃないが合格できる見込みなどなかった旧帝に、今の自分なら合格できるかもしれない。」と考え、良く言えばリベンジ、悪く言えば記念で東北大学の試験に臨んだ。1次試験の筆記、2次試験の面接ともに不手際はあったが、最終的に合格することが出来た。

編入試験が終わってから省みてみれば、緒戦は落としたもののそれ以後は負けなしで終えることが出来た。自分の学びたいことを優先して考え、神戸大学への進学を決めたものの、届き得なかった旧帝を打ち破ったことは今後も私の自信につながるだろう。

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