編入は人生において貴重な体験をさせてくれた

私が編入を決意したきっかけは、第一志望校に落ちたことです。MARCH以外には行きたくないという想いからMARCH、特に第一志望校であった立教大学の学部を変え、その大学だけで3度試験を受けました。併願校は、短期大学2校です。もしも不合格だったら短大に通い、編入をすればいいか、という甘い考えを持っていました。そして試験本番、今までとは異なる問題形式にとまどい、制限時間内に試験を終えることができないという失態をおかしました。3度受けた試験の結果は不合格で、高望みして目指したMARCHのレベルに相応する学力のなさを痛感しました。併願校ではありますが、短期大学の合格通知が届いたときは心から嬉しかったです。
そして短大生活が始まりました。受験が終わった脱力感から、第一回目の定期テストはほぼ勉強せずに受けました。また、短大の魅力的な講義の数々に惹かれ、いくつもの講義を受講しました。例えば、手話や書道、TOEIC対策です。講義を受ける分には、知識も増えますし、とても良い体験をしたと思います。しかし、編入を希望する者がすることではありませんでした。講義の数だけテストやレポートもあり、成績の維持が厳しかったのです。
編入内部推薦という受験方法があります。これは短大の内部で成績の良い者が青山学院大学に編入学できるシステムです。私は推薦編入を目指すには低い成績だったので、見切りをつけて一般編入を目指しました。一般編入を決意したのは短大1年の後期です。本格的に受験勉強を始めたのは短大2年の夏休みからです。短大なので、就職活動をする者、私のように編入をする者がちょうど半々くらいでした。しかし、夏休みを境に「内定が決まった」、「編入推薦に合格した」と言う声が飛び交うようになり、進路の決まらない私は本当に焦りました。そこで私は高円寺にある中央ゼミナールに通うことを決めました。初めて中央ゼミナールを訪問した際に、日比野先生によるきめ細かい進路指導を受け、ここなら頑張れそうだと実感しました。この日を境に本格的に勉学に励むようになり、夏期講習中は毎日中央ゼミナールに通い、学校が始まってからは一週間の内5日間を中央ゼミナールで、残り2日間は放課後に図書室に直行するという生活を繰り返しました。初めの内は進路が賭かっているプレッシャーから、中央ゼミナールに着くなり胃が痛くなりました。しかし、徐々に勉強に身が入るようになり、胃の痛みを感じなくなりました。
私は青山学院女子短期大学に在学でき、本当に良かったと思っています。人生の内に女子大を体験でき、素の自分でいられる友人と知り合えましたし、何よりチャットルームと言う、いわゆる英会話教室に毎日通うことで多くの留学生の友達ができたからです。ここでは多くの青学生との交流もでき、同様に多くの友達ができました。このような経験から、なんとしてでも青山学院大学に編入したいと思うようになりました。
私は中国語を高校1年から現在までの5年間習っていて得意だったので、津田塾大学を受験することにしました。中央ゼミナールの先生からも受かりやすい、ということで勧められましたし、私自身も良い大学だと思っていたからです。過去問からも手応えを感じ、試験当日も精一杯の力を出し切り、これは受かったんじゃないか、と本当に自信がありました。試験が終わってすぐに一番お世話になっている母に連絡しました。友達からはたくさんのお疲れ様メールが届きました。津田塾大学の合格発表は、学祭の前日でした。私は自信があったからか、合格発表日を楽しみに待っていました。いざ合否の書かれた封筒が届くと、今までにない緊張が一気に襲ってきました。その時一緒にいたのは母だったので、二人で恐る恐る開封し、中の紙を取り出し、開きました。「あなたは試験の結果不合格となりました」どうして…という言葉と、どうしよう…という言葉が頭の中で何度も聞こえてくるような感じがしました。そして、涙が止まらなくなり、応援してくれていた皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
すっかり編入に対する自信をなくしてしまいましたが、学祭では応援してくれていた友人たちに励まされ、また心を新たにして受験勉強に取り組むことができました。青山学院大学の入試本番まで残り3週間だったので、効率の良い学習を心がけ、これでもかというほど勉学に励みました。それでも他の受験生に劣っている気がして、本番1週間前は学校にも行かず、中央ゼミナールにこもりました。山崎先生の担当する英作文の授業はとても分かりやすかったため、上位成績者として名前が載ることができ、そのことがとても自信に繋がりました。そして、添削英語を担当する鈴木先生は、どんな質問をしにいってもわかるまで指導して下さり、時には、授業後であるにも関わらず時間を割いて解説して下さいました。そして、毎回の提出課題の得点が上がり、実力の向上を実感しました。
青山学院大学の試験当日、通いなれている家から学校までの道のりだったため、多少リラックスして会場に行くことができました。津田塾大学受験の際は、茶髪でした。英語面接は、明るくはきはきとした感じで受け答えをしました。津田塾大学の不合格がトラウマで、今回は暗くした髪の毛にさらに黒染めスプレーを吹きかけ、メイクもせずに質素な感じで試験に挑みました。面接は真面目に受け答えをしました。試験は専門に関する小論文と英語で、小論文は我ながら良いものが書けたし、英語も学習した範囲が出たため、なかなか解けたのではないかと思いましたが、この感覚を再び信用することはできませんでした。そのため、以前のようには喜ぶことも誰かに連絡することもなく、帰りの電車では新たな受験校に向けての勉強をしました。
受験を終え、さっそく法政大学と学習院大学に要項を提出しました。バイトでコツコツ貯めてきたお金も惜しむことなく入金しました。それほど私は焦っていました。進路が決まり、遊ぶ計画を立てている友人たちに「応援しているよ。」と言われても、応援されている気がせず、共に編入に向けて努力している友人と一緒にいる頻度が増えました。私の入学したい青山学院大学は、12人の募集のうち10人が内部推薦編入で決まっていたため、枠が残り2人でした。法政大学は過去のどのデータを参照しても1人しか受け入れていませんでした。学習院大学は帰国子女や、難関大学を受験する人が併願として受験するらしく、筆記試験も難しければ、英語面接もなかなかハードだということが記されていました。私は未来の見えぬ絶望感で、再び胃に痛みを感じるようになりました。今回は以前とは違い、痛かったとしてもしっかりと身の入る学習ができるようになっていました。
青山学院大学の合格発表当日です。この日は学校があったので、発表時間に一人で掲示板を見に行こうと決めていました。発表の1時間前は、図書館にて祈るようにして青山学院大学高等部の校庭を見つめていて、30分前はチャットルームで留学生と交流をしていました。緊張のあまり自分の心臓の音が鮮明に聞こえ、留学生から“How about you?”と質問されていたのにやっと気がつき“Sorry!”と言ったのをとても良く覚えています。チャットルームを後にし、私は掲示板へと繋がる並木道を一歩一歩進んで行きました。まず目に入ってきたのは、帰国子女合格者発表の番号です。自分の受験した学部ではないとわかっていながらも、私の番号がないじゃん!と相当焦りました。そして、よし!と自分を信じて、掲示板をしっかりと見ました。…82120。以上4名。一番下に私の番号が記載されていました。全く信じられず、震える手で鞄から受験票を取り出しました。掲示板と受験票を横に並べてみると、同じ番号でした。それでも信じられませんでした。すぐさま母に電話しましたが留守番電話に繋がり、さすが母!と思い、その後すぐに父に電話をしました。「もしもし?」と電話先から父の声がし、私が「あのね!」と言いかけた瞬間、涙が溢れてきました。合格発表日を誰にも知らせていなかったため、当然知らなかった父は「どうした?何かあったの?」と心配していました。泣いたまま「青山学院大学に合格できた!」と伝えると、父は「本当に?!よくがんばったね!おめでとう!」と心から喜んでくれました。高校生の頃から夢見ていたMARCHに合格し、信じられない気持ちと達成感とで、今までにない幸福感の余韻に浸っていました。一番お世話になった母には、改めて電話をして一緒に喜びたいと思っていましたが、我慢することができずに掲示板に記された自分の受験番号の写真を添えて、メールで合格したことを伝えました。後に母からは喜びの電話がかかってきて、一緒に喜ぶことができました。まだ学校の授業もあったので受講していたところ、何人かの友達が泣いていた私を心配して声をかけてくれたので、合格したことを伝えると「おめでとう!!」と飛び切りの笑顔を見せてくれたのは、本当に嬉しい限りでした。
編入試験を通し、先に推薦編入をして受かっていた友人の喜び、はしゃぎたくなる気持ちもよくわかりましたし、まだ進路が決まらず、未来が見えず焦っている友人の気持ちも理解できるようになりました。また、編入試験を通し、合格の喜びのみならず、様々な先生方や同じ進路に向けて努力する仲間と出会うことができ、人生において貴重な体験をすることができたことを確信します。
受験生の皆さん、諦めなければ夢は絶対に叶います。辛いことがあってもこの言葉を信じ、夢の実現に向けて頑張って下さいね。

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