受験期を振り返って

 土曜日は昼時から 9 時半までひたすら続く授業に耐え、日曜日は純情商店街前のビッグイシューの購読を楽しみに、家から自転車を飛ばし、自習室に引きこもる。そんな日々が、編入の合格通知を受け取ったその時、一気に過去のものとなった。この時の感情は、恐らく日本語表現の中には存在しないだろう。百の嬉しさの中に一の懐かしさが生まれ、そこに十の寂しさとともに零の悔しさが加わっていく。これは安心感に似た解放感というべきか、もしくはその逆か。この嬉しいという感情の矛先が、合格に対してなのか、受験勉強というものに終止符が打たれたことに対してなのかはわからない。無論、両者に該当するものではあるのだが、兎にも角にも強い喜びに満ち溢れたのは紛れもない事実である。当時は、受験が終わったら思い切り遊ぼうと、精神年齢相応の子供じみた抱負のもと受験勉強に励んでいたが、いざ終わってみるとこれまた面白い現象に出くわした。というのも、屋根裏に押し込んだ携帯型ゲームも、本も、テレビも何一つ心に響かないのだ。遊びという概念が、自分の中から習慣として失われてしまっていたのである。私はそこにもまた、これまで励んだ受験勉強の意義を感じた。どれだけ楽できるかを考える、誘惑にも弱いこれまでの自分が、それなりの苦労にも耐えられる人間へと変わることが出来たのである。元々が、底辺過ぎただけかもしれないが、それでも全然構わない。大きな達成感を味わい、それによって自分なりに成長することが出来たということを、文章という形でお伝えできていれば嬉しく思う。
 さて、ここで受験期の話もさせていただこうと思う。ありきたりなエピソードではあるが、元々自分は勉強嫌いで、一つ言うなら TOEIC も 200 点台で、お世辞にも勉強が得意ではなかった。普段の学校の勉強でも、単位を取るための勉強法だけが見事に磨かれていき、本質的な勉強などというものは受験期以来だ。私の場合、周りのように大学受験はしなかったために、受験期は中学生のころまで遡る。その時の勉強さえも、本質的かと問われたらぐっと口をつぐむ程だ。だからこそ、まずは中ゼミの自習室に身を置くことを習慣とするところから、私の受験勉強は始まった。学校終わりも、家で勉強すればよいだろうという甘い考えを何とかこらえ、中ゼミに通い続けた。中ゼミには、入学後通わなくなってしまう学生が一定数いることを聞いていたこともあり、そうなりたくないという気持ちもまた強かったのである。また、私は生物系志望でありながら、科目としての生物は専攻の相違もあり、高校受験以来である。無論、何の意味もなく生物系を志望したわけではなく、目標あっての事ではあったものの、あまりにも知識がなさすぎた。そのため、予習は予習といて成立しなかったものの、復習は徹底するよう心掛けた。そして、それからもずっと私は中ゼミに通い続け、第一志望の大学から合格の通知を頂くことが出来た。大学編入を心に決め、計画を立て、対策を練り、合格を勝ち取る。このような体験は、きっと誰にとっても自信になるものだと私は思う。だからこそ、私のこの拙い合格体験記が編入を志す誰かの元へと届き、受験勉強の励みとなることを、私は願ってやまない。

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