自粛と自粛の自粛と愛と経済

自粛と自粛の自粛と愛と経済

余震がまだまだ続きますね。東京もわりと揺れますが、震度5や6の地域の皆さんはさぞ怖いでしょうに、と思いをはせずにはいられません。
震災以降突出していた「自粛」ムードに対し、ここ最近はずっと「自粛の自粛」説がたくさん言われるようになってきました。確かに大変な思いを抱えている人がいる中で脳天気なお祭り騒ぎはできない。はしゃげない。というのはもっともです。しかし自粛していると経済が回らない。そうすると復興もままならなくなる。だから自粛を自粛しようというのもうなずけます。
しかし、多くの人がどこまで自粛してどこまで自粛を自粛するのか、というところで悩んでしまうわけです。この葛藤の原因は、自粛の背景にある論理体系と自粛の自粛の背景にある論理体系が違うからなんですね。
自粛の背景には愛がある。自粛の自粛の背景には経済がある。というわけです。さてこれはいったいどういうことでしょう。
震災以降、日本国内のみならず世界中の人が日本の復興を願い、たくさんの励ましや寄付金、ボランティア活動などをしてくれました。日本人としてはありがたく嬉しいと思い、また自分も何かしなくては、と考えます。その背後には利己的な考えではなく、他者を思いやる無償の愛の論理があります。
しかしその一方、経済は無常でした。株価はドーン。あれだけ「日本がんばれ」というメッセージが発せられている一方、経済とはなんとシビアなのでしょう。そこにはいかに効率的に利益を得られるか・損をしないかという利己的で合理的な計算が働いています。しかしそれが経済の論理なのです(もちろん経済学者からはいろいろな反論があるでしょうが)
自粛と自粛の自粛の間の葛藤は、二つの異なる論理体系、愛の論理と経済の論理が混ざりあっている・拮抗しあっている故に起こるのです。どちらが行き過ぎても大変。アリストテレスの中庸はまさにここにしっくり来ちゃいますね。
そういえばある人類学者が、臓器移植は愛の領域で行わなくてはならず経済の領域に置かれてはならないと考えられている。だから臓器は無償であげるものであって売買するものではない、と分析していました。
また数年前の早稲田社会科学部の入試問題でも、「共同体の倫理と市場の倫理という二つの倫理体系の混同」について論じられている課題文が出ました。援助交際がおぞましく感じるのは共同体の倫理の範疇のものを市場の倫理に持ち込むから、とそこでは説明されていました。
今回の自粛・ストップ自粛もこれらの話とかなり似通っていますよね。じゃあどこが一緒でどこが違うのかなど、
この話しに興味を持った、または私の筆力不足でちょっと分からないなどという方は早稲田の問題の方もチェックしてみてください。人類学者の話の方は確か『経済からの脱出』という本に書いてあったと思います。
しかしこう分析してみても結局どこまで自粛してどこから経済に貢献するのか、その辺の答えは残念ながら出せません。無力。バランスを取るしかない、ザ・中庸という結局月並みなことしか言えないのが残念です・・・
さて、そろそろ入学相談もぼちぼち増えてきました。やはり人気はマーチですね。マーチは人気校・かつ難関校。ただ社会学系の皆さんは例年きっちり合格しています。そんな合格者の話を聞きたいという校内生の皆さんは来週木曜17時半から合格者との座談会にぜひ参加してください。またその他のフォロー週間イベントも参加をお待ちしております。

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