伝える。+土日のお知らせ。

伝える。+土日のお知らせ。

震災後初めて秋田に帰省をしました。
新幹線が完全ではないので深夜高速バスで帰ったわけですが、
福島→宮城→岩手と被災地を順に走るルートを取ることになりました。
基本的には真っ暗な中カーテンを開けずに走ったので詳細な状況はわかりませんが、
絶叫マシン並に激しく揺れる車体から、
道路の悲惨な状況を想像したり、
サービスエリアの「大型トラックの林」に、
これらの物資が無事被災地に届くことを願ったりしました。
ここで考えたのが、何かを「伝える」ということについてです。
今回の帰省で私は被災地を目の当たりにしたり、
物資そのものを見たりしたわけではありません。
けれど、それまで自分が持っていた情報や知識とつなげて、
そこにあるものが意味することを受け取ったわけです。
こういう意味で、バスの揺れや大型トラックは十分に何かを「伝えて」いたわけです。
情報を強力に「伝える」ものの一つに
 写真
があります。
今でこそデジタル化が進み素人でも細工ができますが、
かつては何かを示す証拠としてこれほど強いものはなかった。
ジョー・オダネルというカメラマンがいました。
米軍所属で、原爆投下直後の長崎を密かに撮影し、
43年の歳月を経てそれらを公開し、2008年8月9日に亡くなりました。
詳細はいろいろなところで知ることができますので、
ここで述べることは控えますが、
真実を伝えるために彼が選んだ「写真」という手段は、
彼のそれまでの平穏で安定した生活をすべて破壊しました。
絵や音楽、小説などに比べ、
写真は表現する芸術としてなかなか見なされてきませんでした。
けれど、どの瞬間を切り取り、いつ・どこでそれを公開するかを選択した時、
写真家は他のどの芸術家よりも表現者となります。
そして時にそれは命がけにもなる。
震災の写真もそうでしょう。
被災地に簡単には行かれない私たちが、
もっとも容易に目にできる真実は
「写真」の中にあります。
同時に、それらの写真に対峙するとき、
それらが「表現」の一つであることに
もっと敏感であらねばなりません。
伝えられるべきことが伝えられているか
斜に構えるのではなく、
伝えるられるべきことがゆがめられ、隠されていないかを
真正面から考える必要があるでしょう。
敢えて隠された部分にある凄絶な現実を
想像してみることも必要かもしれません。
さて、今週末は土・日と連続してイベントがあります。
17日(日)は入学された方対象の総合ガイダンスです。
その関係で、先週までは毎週日曜日に実施していた
外部の方向けの説明会が16日(土)になります。
また、17日は午前中に入学者対象で無料TOEIC IPテストがあります。
入学者の方は17日、外部の方は16日にお待ちしています。
NS

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