名前。

名前。

こんにちは。赤い実です。
この名前すらなんだか暑苦しい気がする気候です。
今はまだ全然序の口なんだろうなあ・・・。
梅雨が来て夏が来て・・・
学生の皆さんにはなかなか厳しい季節になると思いますが、
どうか、体には気をつけて。
最近私が一番「え?何?どういうこと?」と思った事件が、
アメリカによるオサマ・ビンラディン殺害のニュースです。
実際には何があったのか、なぜアメリカはそんなことができてしまうのか、
そういう議論のネタはたっぷりありますが、
さらにびっくりしたのがその「作戦」の名前が
「ジェロニモ作戦」だったことです。
ジェロニモとは、メキシコや白人と最後まで戦った
アパッチ族(ネイティヴ・アメリカン)の一人です。
その勇敢さからアパッチ族間のみならず有名な人で、
彼を題材にした映画も複数製作されています。
なぜそんな人の名前を作戦名にしたのか。
しかも、ジェロニモにとっておそらくはずっと敵であったであろうアメリカが。
当然のことながら、ネイティヴ・アメリカンの中からは抗議の声が上がっています。
アメリカに限らず、人間はとかく「名前」をつけることにこだわります。
もちろん人間の尊厳のためには個人に付けられる名前は重要です。
その名前にはその人のルーツや歴史や親の願いがこめられているでしょう。
ゆえに、植民地支配における強制的な改名の歴史や、
夫婦別姓の問題が長期的に議論されるわけです。
ゆえに
「名づけ」は慎重でなくてはならない。
それは個人名に限ったことではないはずです。
名前の記号的な役割は想像以上に強力です。
「トモダチ」にしろ「ジェロニモ」にしろ、
アメリカの作戦はなんだか軽いなあ・・・
扱っているのは命なんですけどね。
今日の文脈とは異なりますが、
名前をつける=ラベリングというのも、
社会学的に立派なテーマになり得ます。

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