「人文系」?

こんにちは、人文系スタッフのしらのです。今日は「人文系」ってなに?というお話をしようと思います。
「人文系」って、不思議な言葉ですよね。英語だと”humanities”なんて言われますが、なんで単なる「文系」ではなくて「人文系」なんて言うんでしょう?

元々「人文」という熟語自体は、中国の古書『易経』に出てくるもので、そこでは「天文」や「地文」という言葉と対比して語られます。たとえば「天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す」という一節があります。ここでの「文」は「文様」「文目」と近い言葉で、日常的な言い方では「ありさま」がしっくり来るかもしれません。「天のありさまを見ることで時の移り変わりを感じ取り、人のありさまを見ることで天下を教え導く」という感じの意味になるわけです。
つまり、元々漢語の「人文」というのは、いわば「人の世界の成り行き」を広く指し示す言葉だったと言えます。

一方、西洋語の”humanities”はまた違った来歴をもっています。
“humanities”が取り沙汰されるようになったのは、ルネサンスと呼ばれた時代、日本でいうとだいたい室町時代に当たる時期のことでした。このころは大学の原型ができて間もなく、学問が盛んに行なわれていましたが、いくつか問題もありました。
①当時のカトリック教会(キリスト教の一派です)が神学との整合性を重視するかたちで議論を進めていたこと。②キリスト教以前から残存していたわずかな学術的文献のほとんどは、翻訳・写本・注釈が繰り返され、原型がわからないかたちで伝わっていたこと。
このような状況に満足できず、「教会から離れたところで文献の原本を読みたい!」と活動しはじめたのが、他ならぬ”humanities”を重視する、「人文学者」という人たちでした。教会内部で議論に溺れるのではなく、教会や教会の解釈の外で自由に本を読み学び、人間について深く知りたい。”humanities”とはその意味で、現実の世界に関する知的好奇心そのものだった、と言うことができます。彼らは誰の解釈にも頼らずに自力で原本を探して読み、そこから歴史や道徳など、研究を多岐に拡げていきました。

中国由来の、天文や地文など自然の理(ことわり)と対比される限りでの、「人の理」としての”人文”。西洋由来の、教会内部で自己完結する神学中心の学問と対比される限りでの、「人間性の追究」としての”humanities”。日本で「人文学」という語がいつ訳語として造られ定着したかはわかりませんが、少なくともこの二つの系譜が緩く重なり、錯綜するかたちで現在の「人文学」は成り立っている、と言えるでしょう。
興味深いことに、この二つの系譜はたびたび槍玉に上がる「人文不要論」と趣を異にしていて、方向こそ違えど、いずれも「人間に関するナマの有用な知識」を目指して提唱されてきたものです。ルネサンス期の人文学者たちですら、世をはかなんで書庫にこもったのではなく、知識に飢えて、時には外国語を学んで原本を読み漁ったのです。

昔は古典を読むことで、言語を学び、歴史を学び、思考を学び、社会を学んできました。今は読解以外にももっと多様な方法でアプローチすることができますが、人文系でとくに「言語」と「歴史」が重要なことは変わりません。「言語」はそれを操る人たちがどのような世界で暮らしているかを表し、「歴史」はそこで暮らす人たちの奥行きを見せてくれます。「個性」や「多様性」が叫ばれて久しいですが、忙しくこなすべきことの多い世の中では、それは他人との関わりを希薄にすることの口実にもなってしまいます。本当に「個性」「多様性」を大事にしようと思うのであれば、たとえ時間がかかるとしても、「言語」「歴史」を学ぶことは不可欠です。
人文系で学ぼうとすることはつまり、さまざまな場所で暮らす人たちやその背景に、そして人々の営みに興味を持つということです。文学や言語学など、人文系の下位分野は、そのさまざまな切り口と見ることができます。
勉強をする時間をじっくり確保できる大学という貴重な場で、みなさんも「人文系」で学んでみませんか?