蝙蝠(こうもり)という曖昧な存在と社会学。

蝙蝠(こうもり)という曖昧な存在と社会学。

こんにちは、赤い実です。

GWも後半ですね。

とはいえ、前半別にこれといって特別なことはしていないので、

後半と言われてもまあ、カレンダー的なものでしかないのですが。

そして、お分かりのように、中ゼミにいます。仕事、してます。でも文句ではないんですよ。

連休明けから校内生の個別面談も解禁になるので、その前に、いろいろやっておきたいことがあったわけなんですね。

でも、まだまだ入学申込み受付中です。

HPやパンフレットだけを見ただけでは分からないこともあると思います。

是非、お気軽に足を運んでくださいね。

 

突然ですが、私、野生の蝙蝠に指を咬まれたことがあります。

日本で、しかも東京で。

細かい経緯については省略しますが、まあ、好きで咬まれたわけではありません。

素手でそいつをつかまなければならない状況になってやむを得ずつかんだわけですが、

そいつにとっては敵に思えたのでしょう、手のひらに足(?)の爪を立て、指を咬んできました。

痛かったですがそれだけで、その後も、別に血を欲したり、

夜がとりわけ好きになったりすることはありませんでしたが、

結構珍しい経験をしたかな、と。

で、蝙蝠で思い出すのが、イソップ物語に出てくる蝙蝠です。知ってます?

要するに鳥類にも哺乳類にも見える蝙蝠が、イタチから逃げる理由として、都合よくどちらにもなる、という話です。

この話からは二つの教訓が読み取れるようです。

①相手によって言うことを変え、上手く立ち回るべし

②言うことを二転三転させていると、信用されなくなって、一人ぼっちになりますよ

イソップ童話的には②の要素が強いのかな、と思いますが。

いずれにしても(あるいは一歩間違えると)蝙蝠は悪者ですよね。

卑怯で、孤独になっても仕方のないやつ、ってな感じで。

でも、私はそれをペロッと丸ごと受け入れる気持ちにはなれないんですよね。

イタチへの態度の変わりっぷりは(非常に政治的で)到底受け入れられないのですが、

曖昧な存在のしかたに対する排除の眼差しには、「待った!」と言いたい。

どっちつかずを頭ごなしに否定してしまうと、社会はとっても乾いてしまう。敵と味方に分かれてしまう。

生きていく上で二つのうちいずれかを選択しなければならないタイミングは山ほどありますよね。

でも、それをすぱすぱ決めていくことに価値を置き過ぎるのはいささかさびしい。

迷い、苦悩し、葛藤し、失敗してまた迷う。

そのような状態にある時、人は「どっちつかず」になっています。

例えば夕飯に何を食べるのかなどは、とっとと決めろ、って話ですが、

人生やアイデンティティ、信教や命に関わる場面になってくると、

年単位、世代単位でどっちつかずが続く可能性があります。

それによって傷つく存在がいるのであれば、個人レベルではない総合的な支援が必要になってくることも。

 

社会学ではこのような曖昧なあり方、ゆらぎも研究の対象にしていきます。

どうして決めないの!!

の前に

なぜ決められないのか?

を見つめる、そういう学問です。優しいよね。

 

長々と読んでくださった皆さん、ありがとうございます!

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