権利。

権利。

こんにちは、赤い実です。
前回のテーマは「暴力」でしたが、
体罰や柔道選手の暴行事件などを受けて、
国際柔道連盟がこれらの行為を批判する声明を出しました。
何でもかんでも外国と比べて、
「日本はこれが足りない」という基準で物事を判断することはあまり好きではありませんが、
関係者の「日本は暴力に対する意識や認識が薄い」という発言には同意しました。
暴力によってもたらされる影響の大きさははかりしれない。
きっと、鈍感で、想像力が欠如しているから、
暴力に「愛」などという修飾語をつけられるんだろうなあ・・・。
絶対に共存はできませんよ、暴力と愛は。
で、意識の欠如つながりで今日のテーマですが、
日本には権利に対する意識がある面では弱く、
別の面ではゆがんだ形で強くなっている気がします。
つまり、
主張する側は自分にその権利があるという意識が弱く、
おさえ込もうとする側は権利の主張がされないようにはどうすべきかという点で、
意識が強くなっている気がします。
おさえ込もうとする側の巧みな罠にはまった結果、
はっきりと主張できる立場にありながら、
それを躊躇する人々を救わない国になってきた気がします。
ただ、万人にあてはまる基本的人権という形での主張に比べ、
ある枠組みの中での権利というのは声に出しやすいようです。
例えば「女性の権利」です。
男性と同じ人間であるにもかかわらず、
結婚や出産などを理由に男性よりも低い地位につけられてしまう現状に対し、
男性と同等の評価を受ける権利は主張しやすいようです。
もちろん、十分な実現は未だになされないままですが、
少なくともこの主張に対して渋い顔をすることを「古い」とする土台はできている気がします。
ここでちょっと考えてみたいのは、
枠で区切ることの問題です。
上述の問題は、現在ではジェンダーの問題として表現されることが多いと思いますが、
ジェンダーという枠をはめれば、
当然そこからはみ出る存在が出てくるわけですね。
そこに驚くような差別が生まれることがある。
専業主婦に対する働く女性による軽蔑(もちろん逆ベクトルもあり)はその一例でしょう。
これはジェンダーにかかわらず、いろんな場面で生じています。
原発の事故後、反原発の運動の中で、
「子を持つ母親」の主張が注目されました。
しかしその陰で、独身女性が「子を持たない」ことに引け目を感じ、
ただ人間として、原発に反対することを躊躇したかもしれません。
また、同じく原発の被害者である福島からの避難民の中にも、
「強制的に避難させられた人」と「自主避難の人」との間に線が引かれ、
互いに大きな溝を感じるということが生まれてきているようです。
居住地や職業選択の自由などの権利を奪われているのは同じなのに。
先日孤独死していた避難者もそのような中での見えない差別に苦しんでいたのかもしれません。
このような「驚くような差別」が生じる背景には、
やはり、人権意識の弱さがあると言えます。
「人として生まれてきたからには守られていいのだ」
という意識を意図的に弱め、
本当に守られるべき人の声を抹殺してきた政治の結果です。
ここでもう一度立ち戻るべきは
権利とは、
人が人として
自由に
強く生きるためのものだ
という意識を社会全体で共有していくことでしょう。

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