暴力。

暴力。

本当にご無沙汰してしまいました・・・
赤い実です、すみません。
前のブログ、「もう夏です」とか書いててびっくり。
夏が終わり秋も終わり、冬もいよいよ本番、じゃあないですかっ!
いやはや、本当にあっという間に時が過ぎました。
とは言え、ただただ過ぎていったわけではないですよね、もちろん。
一人ひとりに異なる時の流れがあって、
それによってもたらされた今があるわけです。
つまりは、人の数だけ「時」は多様に存在するのだと思います。
ただ、このブログは社会学系のことを書く場所のようなので、
そうなると、この半年ばかりの間に
社会全体としてどのようなことが起こったのかを考えてみたいのですが、
例によって教科書的なことを書くような私ではなく、
さらにそれに拍車がかかっているので、予めご了承ください。
今朝、思いついたんですね、「今年一年を表す漢字」ならぬ、「この半年を表す熟語」それが・・・
 暴力
です。
この言葉を聞いてたいていの人は、
明確な痛みを身体や精神に与える一方的な力を思い浮かべることでしょう。
そしてそれは往々にして単数あるいは複数の人間による、
単数あるいは複数の人間に対する力としてイメージされるのではないでしょうか。
この場合、おそらく複数はせいぜい10人程度だと思います。
もちろん、これも暴力には違いありません。
このような暴力による被害者はその瞬間が過ぎ去った後もしばらくの間、
もしくは永久的にその影響を受け続けることもあるでしょう。
それが人生そのものをがらりと変えてしまうこともあるかもしれません。
でも、
ここで注目したいのは、
権力(あるいは強者)による仮面をかぶった暴力
です。
原発の問題、生活保護の問題、オスプレイの問題、大阪の体罰の問題、いじめと自殺の問題・・・
これらはそれ自体がもちろん問題であり、
その背景にも仮面をかぶった暴力が存在します。
つまり、
その時は気が付かなかった
取り返しのつかない一方的な力
が。
しかし、それ以上にぞっとし、身震いするのは、
このような暴力の存在が明らかになってもなお、
その解決を強者の論理に基づいて暴力的に解決しようとする力のありようです。
例えば・・・
と具体的に書いてみたのですが、
熱が入りすぎたのでいったん冷却。
言い換えぐらいでとめておきます。
つまりは、
事故や事件など、明らかに「どうにかしなければならないもの」に対して、
これをチャンスとばかりに懲罰的な対処に出てみたり、
自己の保身をオブラートに包むための無茶苦茶な論理を持ち出したり、
思考停止をもたらすような議論に終始したり
というような方法で「解決」したことにするわけですね。
そういう暴力をふるう人々のことをじっくり考えてみたりします。
彼らは何のために生きているのだろう、と。
いや、真面目に考えるのですが、
私には、
やっぱり
分からない。
そこで翻って、
自分がどう生きたいかを究極的に突き詰めていくと、
人と、
それをとりまく様々なものを、
できるだけ傷つけずに生きていきたい
ということになりました。
これは単純な優しさや寛容さを意味するわけではありません。
生きていく中で、傷つけ傷つけられることはおそらく避けられないでしょう。
それでも、人を傷つけたくないことに価値をおくことが笑われない社会にしたい。
もし、自分がいなくなっても、
のこされた大切な人が、
幸せに生きることができる社会。
このために何が必要かを、
幅広く考えていく学問の一つが
社会学、です。
私は少なくともそう思います。
新年度に向けて、どうぞみなさん足を運んでください。
・・・長い、そして思い入れが・・
久々だから、許してくださいっ!!

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