選択。

選択。

ご無沙汰してました。赤い実です。
今日はなんだか肌寒いですが、
いよいよ夏が来ましたね。
そして、補講以外の前期の授業は今日で終了します。
必死で駆け抜けた12回、どうだったでしょうか。
夏期講習が始まるまで約1週間あるわけですが、
これまでの合格者の話から推測するに、
ここの時期での復習は、私たちスタッフが考える以上に重要なようです。
これまでの答案を見直し、再提出(7月30日まで)するのはもちろん、
解答例や再提出後の答案を音読したり、
レジュメを見ながらそれを誰かに解説できるぐらいに頭に入れたり・・・。
夏期講習は、どうしても前期の内容と重複してしまいがちです。
ですが、むしろそれを利用して土台となる知識の足場をしっかりと固めましょう。
今年は幸い、それほど偏った時間割にはなっていないはずなので、
計画的な夏を過ごしてみてください。
また、校外生のみなさん。
明日の夏期講習ガイダンスは、
受講を考えている段階でも参加可能です。
是非どうぞ。
さて。
みなさんは「ソフィーの選択」という映画をご存知でしょうか?
(これから観たいと思っている人はネタバレがあるので注意!!)
1982年に、メリル・ストリープ主演で公開されたもので、
テーマはナチスドイツによるホロコーストです。
この映画の中で、メリル演じる「母親ソフィー」は究極の選択を迫られます。
 息子と娘の両方を殺されたくなければどちらか一人を選べ
もちろんソフィーはとことん苦悩します。
その結果、娘を「生贄」として「選択」し、その手を離します。
この選択を、みなさんはどう思うでしょうか。
「男」を優先したことに憤りを感じる人もいれば、
この場合は仕方ない、と思う人もいるでしょう。
しかし、ここで私が問題にしたいのは、
このような「究極の選択」についてです。
「正義とは何か」と同義とも言える「正しい選択」とは、
一体、何なのでしょうか。
原発の問題にあてはめて考えてみたいと思います。
今目の前に人の命とお金があって、
どちらかしか選べないとすれば、
おそらくよほどのことがない限り、
ほとんどの人は人の命を選択するでしょう。
また、よほどの理由によってお金を選んだとしても、
その選択に対し、非難の目が注がれるであろうことは想像に難くありません。
つまり、そこには究極も苦悩も存在しない。
この選択には、ソフィーが迫られたような究極な複雑さはありません。
いたって単純です。
ですが、これがもし目の前の命ではなく、
何世代も先、存在するかどうかも分からない未来の命であった場合どうでしょう。
今の経済的な潤いと、自分が死んだ後の、平和で安心できる社会を天秤にかけるとしたら―。
原発を稼働し、使用し続けるかどうかについての選択とは、つまりこういうことなのだと思います。
「お金か命か」
単純なはずなのにそれが通らない。
そこには一見するとソフィーが迫られたような複雑で苦悩を伴うような選択があるように見えます。
もちろん安全や命は大事。
でも、今すぐ死ぬわけではないのなら、
お金も同じぐらい大事なんじゃないの?
と。
ソフィーに失礼だと、私は思います。
そんな究極な選択ではないはずです。
原発を選ばないという選択肢によってもたらされる経済的な影響は、
他のエネルギーの選択や我々の生活の見直し、
「経済大国」であることの意味をしっかり捉え直す姿勢を持ちさえすれば、
大したものではないはずです。
時間的な差はあるとはいえ、「命」と天秤にかけられるほどのものになど到底なり得ません。
選択は、単純なのです。
それにやはり私は、
 人間として
 自分がいなくなった後の命を
 想像できる存在でありたい。
みなさんはどうでしょうか。。

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