アンダー・ザ・ブリッジ3

アンダー・ザ・ブリッジ3

こんにちは赤い実です。
3月11日、震災から1年が過ぎました。
翌日、かつての教え子と会う機会があり、彼女が私に質問しました。
「黙祷ってなに?」
17歳にもなって全くこの子は、
と半ばうんざりしながら、
「それはね、目をつぶって、1分ぐらい・・・」
と説明を始めた私を彼女は遮りました。
「やり方は分かってるよ。分からないのは
 その1分間、私は何を考えたり思ったりすればいいのかってこと」
不意を突かれた気がしました。
東日本大震災がとんでもないことだったとか、
亡くなった人や、行方不明者が相当な数だとかはもちろん分かってる。
でも、幸い私は身近な人を亡くしてもいないし、亡くした友人も近くにいない。
そういうときの黙祷は何を思ってすればいいのだろう・・・
ということのようでした。
どちらかと言えば「真面目」が「面倒くさい」今時の女子高生です。
そんな彼女が抱いた疑問は、実はとても真面目で誠実なものではないでしょうか。
目には見えず、耳にも聞こえない、
究極的に個人の部分である「心」のあるべき姿を求めた彼女の姿勢は、
自己と他者をつなぐしなやかな考え方とはどのようなものかを知る、
重要なヒントとなるような気がしました。
他者へのまなざしというのは、
個人が生活している家庭や地域、学校などの取り巻く環境によって、
知らず知らずのうちに影響を受けます。
社会化の過程で、人は少しずつ他者の存在を知り、自分との差異を認識し始めます。
その差異をどう受け入れるかが、豊かな社会になるかどうかのポイントと言えるでしょう。
そしてそれを支えるのが「権利」という考え方です。
ということで「アンダー・ザ・ブリッジ」ラストです。
平等で自由で社会的な人間であることが
誰にとっても保障されるべき権利であると人々が気付くのには時間がかかりました。
それが女性や障害を持った人々にまで広まるにはさらなる年月が必要でした。
つまり、当たり前を当たり前と気付き、
それを普遍的なものとして確立することは、
実は相当に大変なことだったわけです。
逆に言えば、それを崩してしまうことは簡単かも。
何を思い、何を信じ、何をどう表現するか―
これに干渉する橋下市長の「思想調査」からは、
崩せるものなら崩してやろうという危うい匂いが、
結構、します。
社会学は目に見えて起きている事象をそのままでは終わらせません。
背後にあるものを読み取り、
より多くの人々にとって生きやすい社会とはどのようなものか
を提示する責任があります。
そのようなものであるべきだと、私は思っています。
さて、いよいよ明後日は前にも予告しました
 春の進学ナビ
です。
社会学系で予定している合格者は・・・
お茶の水女子大学文教育学部
同志社大学神学部
立教大学コミュニティ福祉学部
埼玉大学教養学部
群馬大学情報行動学部
法政大学社会学部

などなどです。
是非気軽に足を運んでみてくださいね。
いつもながら、長くなってしまいました。
以上ですっ!

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