記憶物質とプラナリア

記憶物質とプラナリア

こんにちはバラックです。先日私的な用事で2,3日ほど2時間睡眠が続いたときがあったのですが、あれはよくないですね。頭の回転が著しくおちます。
皆さんも効率的な勉強をしたいのならば、だらだらと時間をかけるよりも時間を決めて集中し、脳をしっかり休める時間を取ったほうがいいですよ。
さて、脳ということで今日はちょっと記憶の話を。
「記憶は物質である」
といわれたらきょとんとしませんか。
「何を言っているんだ、記憶は脳に貯蓄される情報だ」
「いや、だからその脳に貯蓄される情報とはいったいどんな形であるのだ?」
「・・・・」
「記憶は物質として脳に貯蓄されるんだ」
こういった説を実証しようとする実験が1970年代にさかんに行なわれました。
その実験の中心となり議論を巻き起こしたのが「プラナリア実験」です。
もし脳の中に記憶が物質としてためられているのならば、その脳を摂取することで記憶そのものが移植できるのではないか。科学者はそう考えて、生物が持つ「学習」という機能に目を向けました。ある学習をした動物の脳をまだその学習を修得していない動物に移植し(食べさせ)、その動物が学習していないのにその行為が出来た場合、その記憶物質があると証明される、というわけです。
そこである科学者はプラナリアと一生懸命共同作業を行ないました。水槽を泳ぐプラナリアにライトを当て、その後に電流を流します。するとプラナリアは体をキュっと縮めます。それを繰り返していくうちにプラナリアはライトをあてただけで体をキュっと縮めるようになります。この段階で学習が完了したとみなされます。
次に衝撃的な手順に入ります。科学者はそのプラナリアをすりつぶし、そのすりつぶしたものを他のプラナリアに与えます。もしその与えられたプラナリアがライトを当てただけで体をキュっと縮めたら、見事その学習した記憶物質がそのプラナリアに移った、ということになるわけです。
そしてその実験は成功しました。プラナリアはライトを当てられると体をキュっとしました。科学者は記憶物質の存在を証明したのです!
胡散臭いと思いますか?
当時の学会でもこの実験は大論争となりました。多くの科学者たちが同じ実験をしました。しかし、この実験はとても難しく、最初のプラナリアの学習のところでつまずく人も大勢いました。また、同じように学習記憶の移植に成功した!という人たちもいれば、成功しなかった=記憶物質はない!という人たちもいました。今や記憶物質のあるなしは、多数決の様相を呈するようになったのです。
科学的な真実は絶対的にあるもの、という一般的な印象からすると、ひどく不思議に思えませんか。科学の事実が多数決によって作られるなんて。
さてプラナリアに話しを戻すと、プラナリア実験はだんだんと進展し、対象となる動物もプラナリアからねずみへと「進化」しました。そこでもやはり論争に決着はつかず、いつの間にか記憶物質説は下火となっていったのです。
確かに今のこの時点から見ると記憶物質説なんてひどくばかげたものに見えるかもしれません。しかし、ひょっとしたら将来別の形で記憶物質が「証明」されることだってありえます。
現在の生物の仕組みの多くがDNAの存在に拠っていますが、ひょっとしたらこのDNAだって将来別のものにとってかわられているかもしれません。
100年後の人に「21世紀の人は遺伝子ってのいうのを信じていたんだって」と。
こんな風に見てみると、当然のように真実を与えてくれる、純粋で合理的で客観的な科学というイメージもゆらいできませんか。
このように科学自体を考察したり、科学を社会の中に位置づけて考えたりするのが、科学社会学という分野になります(類似のものとして科学哲学や科学論、科学人類学など)
ここで提示したプラナリアの例は『7つの科学事件ファイル』というちょっとふざけたタイトルですがかなり読みやすくて面白い本に載っています。また科学論系に興味がある方は、村上陽一郎あたりから入るととっつきやしかもしれません。
にしても記憶物質・・・食べることでそのものの持つ力を体に宿らせることが出来る、という考えもわりとあちこちにある魔術的な想像力なわけですから、それほどおかしな発想ではないような気がします。しかしもしそれが本当にあってしかも製品化されてしまった日には、社会の仕組みはどうなるんでしょう。少なくとも大学に入る受験科目はまったく別の形態になってしまうでしょうね。

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