「バケモノの子」とマージナル・マン

「バケモノの子」とマージナル・マン

こんにちは、まりもです。

まだ8月だというのに、すごい寒さですね。

急激な寒暖の差で、今日は出勤するのがほんとうにしんどかったです。

(といったら、A先生に「しんどい」は方言ですね、と言われました。

関東の方はほんとに「しんどい」って言わないんですか?)

 

さて、もう1か月前になりますが、「バケモノの子」をみてきました。

(以下、ネタバレあります)

バケモノの世界に人間の子どもが迷い込む、というお話だという以外は

何の前情報もなかったので、

なんとなく「マージナルマンのはなし?」と思っていましたが、

ちがってましたね~~。

 

大辞泉によると、マージナル・マンとは、

「互いに異質な二つの社会・文化集団の境界に位置し,

その両方の影響を受けながら,いずれにも完全に帰属できない人間のこと。

社会的には被差別者,思想においては創造的人間となりうる。」

とあります。

 

主人公の九太は、バケモノの世界と、人間の世界をいったりきたりするんですよね。

しかも、最後には、人間の世界でしりあった女の子も、バケモノの世界に招待されてて

びっくりしました。

だって、「千と千尋の神隠し」みたいに、

最後は、バケモノの世界への道は閉じられてしまうと思ってましたから。

 

でも、九太はどちらにも居場所をみつけ、どちらも行き来する(しているんですよね、たぶん)

マージナルマンでありながら、マージナルマンでない存在でした。

マージナルな人をも包摂した世界を描きたい、という監督の意思が垣間見える気がしました。

 

そういえば、「せんちひ」では、主人公は名前をとられて支配されるけど、

九太は自分から名前を明かさないことで、自分の人間界での居場所を守っているのかも?

なーんて、

社会学を勉強すると、

映画の見方もちょっこし変わりますよ~~。

コメントは受け付けていません。