月別アーカイブ: 8月 2011

燃え上がる

燃え上がる

こんにちは。いまだアナクロ世代のバラックです。先日ブラウン管型のテレビデオがついに壊れました。
ある言葉が比ゆ的な使われ方をしてしまったことで、もともと持っていた意味とは別のその比ゆ的な意味の方が強調されてしまうということはまま起こりえます。
例えば「炎上」
私なんかは炎上というと「吉原炎上」だとか、火事ですかなどと思ってみたりするのですが、おそらく現在のネット世代の皆さんはブログや掲示板などで批判コメントが殺到するという状況としての「炎上」を連想されるのではないでしょうか。
そして炎上とかネット上での個人攻撃だとか、たまにSNSや掲示板などで目にしても、私にとっては全く他人事、よその世界の出来事で、まあそんな社会現象もあるよなあ、などとどこか距離をとって眺めている程度のことだったんですが、先日私の間接的な知り合いの方がネット上で大変なバッシングにあっていました。
その人のツイッター上のつぶやきやブログをいちいちコピペして、皆でバカにしてるんですね。もちろんバカにしている方は匿名です。有名人相手ならまだしもなぜ一般人が、とちょっとびっくりしたんですが、反対にただの一般人のネット上での発言がここまで多くの人を引き付けるなんてそれはそれですごいとも思ってみたり。
ネット上に何かを発信するというのは、見知らぬ多くの他人に対して自分の発言に責任を持たなくてはならないということなのだな、と身を引き締める思いであったと同時に(ここでも気を付けて書かないと・・・)、あらためてネットのネットたる所以がわかった気がします。
それにしてもなぜこの人の発言他がここまでとりあげられるのだろうか、というのもまた疑問です。こうした一種の流言について、オルポートとポストマンは「流言の量は問題の重要性と状況のあいまいさの積に比例する」という定式を掲げました。
確かに流言やデマを考えたとき、この公式は納得のいくものだと思います。しかしこの例のようにただの一個人の発言はそれほど重要な問題でしょうか・・・と考えたとき、一見問題としては重要じゃないけれども、「変」であるということ、あるいは「変」であることを見出すことはわりと大きな問題なのではないか、というような考えにたどりつきます。
確かに学校やクラスといった集団には周囲から浮く人、浮きすぎて「変な人」と皆が注目し、くすくす笑われ、話のネタになる。一つ一つの動作や発言がいちいち取り上げられ、それを皆で共有し「おかしい」という。
そういうことは多々生じます。
自分が変なものを変だといいたいのは、自分が変だと思う基準がひょっとするとまちがっているかもしれない、だから自分が変だと思うものを他の人も変だといえば、変なものを変だという自分の基準は変ではなく、変だといわれる対象が変だということが確認されるわけです。それでひとまず安心。といったようなことがあるのかもしれません。
そして今回の件をはじめとしたそのほか多くのネットでのバッシングは、この学校とかクラスといった集団がネット上のサイトを見ている人に拡大されている、書き込んだり閲覧したりしている人は、自分の「変だ」判断基準があっているかどうかを確認しているのではないか、とも思えます。勝手な見解ですが。
最近たまにテレビで「これは常識か否か」といった状況を皆で常識か否か判定し合う、といった趣向のものが見られます。基準、スタンダードは共有されていて当然なのに、共有されていないかもしれない。そう思っているのは自分だけかもしれない。というような気持ちがあるのでしょうか。いや反対に、これは絶対常識なのに、共有していない「常識はずれ」な人がいる。それはその人がおかしいからだ、ということを確証したいのかもしれません。
そんな風に「変さがし」をしながらも、その「変」は他者と共有されうる「変」でなくてはならない、「変」を「変」であると他者と確認し合わないと「変」だと言い切れない、現代はそんな社会になっているのかもしれません。これまで共有されていた確固たる判断基準がなくなってしまったリキッドモダニティ、とも見えますが、現代などは関係なく、文化の中に産み落とされる人間としてその文化の枠組みをそういった形で確認したいのかもしれません。
いずれにせよ最初にあげた人の例は、こういった「変さがし文化」のいい例なのでしょう。
ただ個人的に、お互いがお互いを傷つけあって憎悪の連鎖を築くコミュニケーションはあまり好ましくないとは思います・・・
まあ私個人の見解はさておき、ウェブ論や炎上などに興味がある人は社会学者がいろいろ書いていますから眺めてみるのも楽しいかもしれません。荻上チキさんの『ウェブ炎上』という新書はとっつきやすくてわかりやすいですよ。興味がある方はぜひ。
さて今日から高円寺阿波踊りです。中ゼミの外はずっとにぎやかで、中でこんなことを書いているのがもったいないくらいうずうずウキウキ・・・・というのは嘘で混む電車がいやで一刻も早く帰りたいお年頃。

編入タイムス

編入タイムス

こんにちはバラックです。
このブログを書こうとして隣のK先生に面白いネタはないか聞いたところ
「俺の電話が壊れたという話」
というネタをくれました。
「ついにスマートフォンか」
というのがメインポイントだそうでうす。
ちなみに社会系スタッフとしてここにいる私ですが、浮世離れした人類学なぞをやっているために、世間の事情にはとんと疎いのが問題なところ。スマートフォンもよく耳にはするものの、それが一体何なのかがよくわかっていません。いったい何ですか。
だからスマートフォンになるのかどうかといったことも話の重要さが全くわかりません。とりあえずスマートフォンが携帯電話の一種らしいというのはおぼろげながらわかるのですが。それに変えると何かすごいんですか。普通の電話じゃだめですか。
まあこんなくだらない例が示しているように、社会学系の英語でも論文でも、そこで出題されている内容が全くわからなければ論じることもできない、あるいは理解して和訳することも難しい、となるわけなんですね。例えば、いくらゲマインシャフト・ゲゼルシャフト・ゲノッセンシャフトや市民的無関心がわかっていたとしても、裁判員制度についてそれがなんなのかわからなかったら何も論じられません。一般人が裁判に関わる・・・それが何か?となるわけです。
普段から新聞を読んでください、というのはこういうことですね。出題されている内容に食いついてしっかり論じるためにはそれ相応の知識のバックグラウンドが必要になるのです。新聞・ニュースは常日頃からばっちりチェックしておきましょう。
そしてもう一つチェックしてもらいたいのが『編入タイムス』なるものです。これは中ゼミの事務の皆さんやスタッフが一生懸命集めたデータを惜しみなく載せている冊子です。各大学の出願期間・試験日、合格者の声など、マル秘な情報盛りだくさんです。いやこれは貴重ですよ。他にはないものですからね。これがもらえるのも中ゼミ生の特権の一つと思ってもらっていいかと。
そんなわけで校内生でまだタイムスをもらっていない方は学生証を手に受付のところまでおこしください!
ちなみに先述したスマートフォンですが、メディア系の学科や専攻にしたい人は、スマートフォンを志望理由書の研究テーマにしてみても良いかもしれません。
携帯電話の登場は人間関係のありかたやコミュニケーションにいろいろな影響を与えました。では携帯電話の中でもスマートフォンの登場は、私たちの他者との関係やコミュニケーションにどんな影響を及ぼすでしょうか。
スマートフォンと携帯電話の違いはなんですか。どんなメリット・デメリットがありますか。
というようなことをやりたいという方がいたら、ぜひ私にスマートフォンについてあれこれを教えて下さい。

基準値

基準値

かにかくに渋民村は恋しけり思い出の川思い出の山
という石川啄木の歌があります。「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」の方も現代社会のワーキングプアだの派遣切りだの非正規雇用問題だのを彷彿とさせられてぐっと来るのですが、こちらの「かにかくに」は「ふるさと」大好きな日本人の郷愁に激しく訴えかけるのではないかと思います。日本人は「ふるさと」が大好きですよね。自分の故郷そのもののことではなく、思い出すべき場所、帰るべき場所、自分のルーツといったイメージとしてのふるさとですが
「うさぎおいしかの川」(おいしは追いしであって美味しいではないですよ)の歌だとか、遠きにありて思うものだとか、ふるさと納税だとか、錦を飾ってみたりだとか
こんな「ふるさと」も今や震災の影響で二度と戻れなくなる場所になってしまうかもしれない・・・といった不安が渦巻いている、というのが今回の「基準値」というタイトルであるという話ではありません。全く関係ありません。このふるさとの話は昨日うっかり寝る前に啄木を読んでしまって無性に悲しい気持ちになったというここだけの秘密の話です
で、今回のこの基準値という話はいったい何の話かというと、「美の基準」についてです。おお、何かぐっときますね。志望理由書シーズンということで、色々な面白いテーマでも書いてみようという趣向です。
志望理由書の研究テーマを決める上でやはりジェンダーは人気のテーマですが、ジェンダーだけではテーマになりません。ぐっとジェンダーに引きつけた何か別のテーマを掘り下げてあげる必要があるわけです。
そしてジェンダーの中でも女性ネタは女子学生の皆さんに人気なので、女性とよくセットで扱われる「美」というものを取り上げてみたいと思います。
ちなみに去年の合格者の方で、この美をテーマに選んだ方がいました。つまり、どうして女性は美と結びつけられるのか、という問いに取り組むというものなんですね。興味深い。確かに不思議じゃありませんか。どうして女性と美はワンセットになるのだろうか。なぜ女性は美というものを目指すべきなのか、女性をはかる基準として美が与えられるのはなぜなのか。
疑問ですよね。彼女にはぜひ彼女なりの答えを見つけてもらいたいと思います。
ここではもう一つ別の視点を。
美の基準とは何なのか。これはわりと永遠のテーマですよね。皆さんもこれまでよく耳にしたのではないでしょうか。平安時代の美人は今と違って、下ぶくれの顔に細くて切れ長の目といった、今で言う「おかめ顔」が美人だった。(いやでも今もこういう顔で美人はいると思うんですが)
アフリカの一部や南太平洋の島では太った人が美人だ。
あるいは首が長い方が美人だというので首輪を何重にもつけて首を長くしたり、足が小さい方が美人だからと纏足をしたり(昔の中国では足が小さい方がいいというので、子どもの頃から足を布でぐるぐる巻きにして足の成長を止めたんですね。相当痛かったらしいです)、胴体が細い方がいいというのでコルセットで内蔵が変形するくらいまでウェストを締めたり(マリー・アントワネットの胴体を見てください!今だったら奇形ですよ)
というように美の基準は時代や地域によって実に様々なんですね。
そうしてその美を求めるエネルギーというのはなかなかすさまじいものがあって、ここで挙げたような身体変工も実に多くのバリエーションが実に多くの文化で存在していました。現代だって欧米や日本、韓国などでは美容整形という一種の身体変工をしています。
ただ、そんな風に美には色々な基準がある、求める美は文化・社会、あるいは時代によって異なり、一つの基準値ではかることはできない(皆さんこの考え方に覚えはないですか。そう文化相対主義です。cultural relativism!)にもかかわらず、
美の基準の画一化というようなものも起きているように思えます。
ユニバーサルな美の基準の登場とでもいうような。
たとえばミスユニバースやミスワールドを見てください。世界各国、様々な女性が集まっているのに、参加者は皆似た容姿ではありませんか?
髪や肌、瞳の色は異なるのに、スタイル、笑顔、歯の白さ、輪郭や顔のバランスは見事に同じタイプです。基準値オーバーの人はなぜかいません。ユニバースのはずなのに!
一つ考えられるのが、その基準が欧米基準であるというものです。欧米の美人の基準が世界に広まっている、グローバル化でいうところの欧米化、あるいはアメリカ化とでもいえるでしょうか。グローバル化は価値観の画一化までもたらしたのでしょうか。
それとも別の考えも成り立ちます。あれはアメリカ化や欧米化といったものではなく、新しい美の基準、それこそユニバーサルな美の統一基準ができあがってきているのだ、と。
それがどちらかなのかはわかりません。しかもおそらくミスユニバースなどが始まってからの歴史を見てみたら、歴代のミスの人達の容姿はおそらく時代によって異なるでしょう。じゃあそれぞれの時代の基準はどんなもので、それがその当時の国際情勢とどういった関係があったのか。今の美の基準というのは一体何なのか。
こんな問いを追究していくのはなかなか楽しそうですよね。
そんなわけで女子大狙いの皆さん、美しさに興味がある人はこんなテーマもいかがですか。もちろん男性の方でもいいですが

埼玉小論文実施

埼玉小論文実施

編入試験は魔物です。
いや何が言いたかったかというと、大学の一般入試はだいたいある程度の決まりと傾向性があって、それが変更されることはほとんどありません。例えば定員、入試に必要な科目、出題傾向etc・・・
対して編入試験は非常に変則的になることが多いです。一般入試がすべての大学で実施するのに対し、編入試験の実施は各々の大学、学部、学科によります。また定員も学部で30名や10名などそれ相応の数を定めている大学がある一方で「若干名」として毎年決して合格を出してくれない大学もあります。
また実施していた大学や学部が年によって実施しなかったり、やめてしまったりするところもありますし、試験科目も英語があったのがTOEICのスコア提出になったり、学部の再編によって科目が変わったりなど、「例年の傾向」が必ずしも通じないのが編入試験です。
さんざん対策したのに、こんな問題が出るなんて!試験でてんぱって頭が真っ白になっちゃった!
魔物!
ではありますが、常日頃から中ゼミの社会学系の授業をしっかり受けて復習して再提出して本を読んで、というのをしておけば、どんな問題が出てもどんと来い!状態ですから、そこのところは安心してください。ただしこの安心は努力によって保たれるものであるということもお忘れにならないよう。
そんなわけでお知らせです。
もうご存知の方もいらっしゃるでしょうが、去年までは英語のみを受験科目としていた埼玉大学教養学部現代社会専修が、今年から小論文を実施するそうです。
前から噂を聞いてはいたんですが、あらためて要項を確認したらやっぱりそういうことでした。
さて、埼玉を考えていた皆さん、小論対策にも力を入れていきましょうね。
昨晩玄関のドアに何か灰色の細い紐がくっついていました。なんだろうと思ってよく見たらちょろちょろと走りだし、わきにおいてあった洗濯機の裏へと消えていきました。正体はヤモリ君。
初めてヤモリ君が部屋の中にあらわれたときにはどうしようもなく動転し、寝ている間に体の上にのってきたらどうしようと気が気ではなく一睡もしないで夜明かししたなんてこともありましたが、あまりにもヤモリくんが頻繁に家の内外で目にするためか最近はかわいいと思い始めるようになりました。
一匹のヤモリが3日ほど天井近くの壁にくっついていたときには、親近感を通り越して何だかペットを飼っているような気も。最初見つけた時にあそこまで嫌悪感を持った自分がうそのようです。
だからきっと怖いとか気持ち悪いとか、そういう気持ちを抱かせるものも、しばらくの間時間をかけて慣れてみるとそんな風には思わなくなるのではなかろうか。
というようなぼんやりとした確信が胸のうちに生まれてきました。
という具合にいやなものを避けるのではなくむしろ積極的に取り組むことでそんなにいやじゃなくなるというのはきっと勉強とかでもあると思うので、苦手な科目がある人はとりあえず苦手と思いつつもじっくり向かい合ってみてください。何だか最後は付け焼刃的な自己啓発系の話になってしまったような気もしますが・・・
しかしやっぱり苦手なものは苦手なわけで、私なんかはもっとも苦手とする毛虫芋虫系を克服しようとネットの画像検索をかけてたくさん目にしていたはずなんですが、いざ毛虫が膝の上に這い上がってきているのに気が付いた日には一気に100メートルダッシュをするくらいの拒否感嫌悪感でした。虫唾が走るとはまさにこのこと。いやあやはり毛虫などは写真で精いっぱいです。

米米くらぶ

米米くらぶ

こんにちは。バラックです。
昨日までの猛暑が一転、雨とともに寒さがやってきましたね。世間的には「暑さもほっと一息」という和みムードなのかもしれませんが、個人的には米の出来が気になってしまう今日この頃・・・・
この夏の気温の乱高下によって、わりといろいろな農作物がいろいろな影響を受けたようです。私の故郷の名産品「だだちゃまめ」も、今年はかなり収穫量が少ないそうで、色も薄いとかなんとか。ただそれでも味はうまいとのことで親戚から大量にもらってきたのですが、確かにおいしかったです。山形のスーパーでも値段がかなり高騰しているそうですから、東京のスーパーで売られるものは相当な価格になることでしょう・・・
でもおいしいから皆さん見つけたら食べてみてくださいね
そして米の出来が気になるのは、私がたぐいまれな新米好きというのもあるのですが、やはり今年は大震災のせいですよね。東北地方は米どころ・・・・震災の影響でどれくらいの新米が減るのかはわかりませんが、最近は新米の不足ではなく放射能を憂いて古米の不足が起こっているのだとか。
秋においしいお米を皆がたくさん食べられるといいですね。
最近山形県は全力でつや姫という新種の米を開発し全力で売りにでていますが、個人的につや姫よりもはえぬきが好きです。つや姫は触感がちょっとコシヒカリ系で、もちもち味があとからじわじわ、はえぬきは心持粒が小さめで、甘みが最初にどわっときます。主観ですが。
そんなわけで、米にまつわるニュースが今後流れるかもしれませんが、本当に心配なのは米自体ではなく、米にまつわるエトセトラで買占めが起こることです。買占め・・・普段見向きもしないくせに!というわけで買占めに走らないよう皆さんもお気をつけくください。
「買占めについて分析しなさい」
というのも社会学的にできるようにしておきましょうね。
あとは新米の収穫まで穏やかでノーマルな気候が続いてくれるのを祈るのみ・・・・
夏期講習も半ばにさしかかりました。皆さんの調子はいかがでしょうか。昨日までの暑さと今日の寒さで一気に体調が崩れるかもしれません。受験勉強に専念するのも大事ですが、体の調子にも耳をそばだてて気を配っていてください。