月別アーカイブ: 6月 2011

記憶物質とプラナリア

記憶物質とプラナリア

こんにちはバラックです。先日私的な用事で2,3日ほど2時間睡眠が続いたときがあったのですが、あれはよくないですね。頭の回転が著しくおちます。
皆さんも効率的な勉強をしたいのならば、だらだらと時間をかけるよりも時間を決めて集中し、脳をしっかり休める時間を取ったほうがいいですよ。
さて、脳ということで今日はちょっと記憶の話を。
「記憶は物質である」
といわれたらきょとんとしませんか。
「何を言っているんだ、記憶は脳に貯蓄される情報だ」
「いや、だからその脳に貯蓄される情報とはいったいどんな形であるのだ?」
「・・・・」
「記憶は物質として脳に貯蓄されるんだ」
こういった説を実証しようとする実験が1970年代にさかんに行なわれました。
その実験の中心となり議論を巻き起こしたのが「プラナリア実験」です。
もし脳の中に記憶が物質としてためられているのならば、その脳を摂取することで記憶そのものが移植できるのではないか。科学者はそう考えて、生物が持つ「学習」という機能に目を向けました。ある学習をした動物の脳をまだその学習を修得していない動物に移植し(食べさせ)、その動物が学習していないのにその行為が出来た場合、その記憶物質があると証明される、というわけです。
そこである科学者はプラナリアと一生懸命共同作業を行ないました。水槽を泳ぐプラナリアにライトを当て、その後に電流を流します。するとプラナリアは体をキュっと縮めます。それを繰り返していくうちにプラナリアはライトをあてただけで体をキュっと縮めるようになります。この段階で学習が完了したとみなされます。
次に衝撃的な手順に入ります。科学者はそのプラナリアをすりつぶし、そのすりつぶしたものを他のプラナリアに与えます。もしその与えられたプラナリアがライトを当てただけで体をキュっと縮めたら、見事その学習した記憶物質がそのプラナリアに移った、ということになるわけです。
そしてその実験は成功しました。プラナリアはライトを当てられると体をキュっとしました。科学者は記憶物質の存在を証明したのです!
胡散臭いと思いますか?
当時の学会でもこの実験は大論争となりました。多くの科学者たちが同じ実験をしました。しかし、この実験はとても難しく、最初のプラナリアの学習のところでつまずく人も大勢いました。また、同じように学習記憶の移植に成功した!という人たちもいれば、成功しなかった=記憶物質はない!という人たちもいました。今や記憶物質のあるなしは、多数決の様相を呈するようになったのです。
科学的な真実は絶対的にあるもの、という一般的な印象からすると、ひどく不思議に思えませんか。科学の事実が多数決によって作られるなんて。
さてプラナリアに話しを戻すと、プラナリア実験はだんだんと進展し、対象となる動物もプラナリアからねずみへと「進化」しました。そこでもやはり論争に決着はつかず、いつの間にか記憶物質説は下火となっていったのです。
確かに今のこの時点から見ると記憶物質説なんてひどくばかげたものに見えるかもしれません。しかし、ひょっとしたら将来別の形で記憶物質が「証明」されることだってありえます。
現在の生物の仕組みの多くがDNAの存在に拠っていますが、ひょっとしたらこのDNAだって将来別のものにとってかわられているかもしれません。
100年後の人に「21世紀の人は遺伝子ってのいうのを信じていたんだって」と。
こんな風に見てみると、当然のように真実を与えてくれる、純粋で合理的で客観的な科学というイメージもゆらいできませんか。
このように科学自体を考察したり、科学を社会の中に位置づけて考えたりするのが、科学社会学という分野になります(類似のものとして科学哲学や科学論、科学人類学など)
ここで提示したプラナリアの例は『7つの科学事件ファイル』というちょっとふざけたタイトルですがかなり読みやすくて面白い本に載っています。また科学論系に興味がある方は、村上陽一郎あたりから入るととっつきやしかもしれません。
にしても記憶物質・・・食べることでそのものの持つ力を体に宿らせることが出来る、という考えもわりとあちこちにある魔術的な想像力なわけですから、それほどおかしな発想ではないような気がします。しかしもしそれが本当にあってしかも製品化されてしまった日には、社会の仕組みはどうなるんでしょう。少なくとも大学に入る受験科目はまったく別の形態になってしまうでしょうね。

アリへの哀歌

アリへの哀歌

こんにちは、バラックです。
今年もまたこの季節がやってきました。この季節というのは梅雨というのでも初夏というのでもなく、虫の季節です。
我がアパートは古い木造であちこちに隙間があるため、いろいろな生き物がいつの間にか部屋の中に入っています。皆さんになじみのゴキブリはもちろん、クモやヤスデ、ときにはヤモリまで。最初はいちいちぎょっとしましたが、生物に本質的に備わっている(と信じたい)適応力によって私もすっかりこれらのお客さんたちに動じなくなりました。
しかし一つだけ例外があります。アリです。奴らはお客さんという生ぬるいレベルではありません。侵略者です。アリは最初一匹だけで偵察にやってきます。そのうち2匹、3匹と目にする機会が増えていき、ある朝目覚めたら布団の上を何匹ものアリが、床の上にはあちらにもこちらにもアリが、という状況になっています。そして奴らはさらに砂糖ツボの中、電子レンジの上、食器棚の中にまで入り込み始めるのです。目を向けるところすべてにアリがいる、という状態でほぼ侵略完了です。
世の中にはこういう侵略者向けの様々な薬剤が販売されていますが、毎年のようにこの侵略者に遭遇してきた私は独自に撃退方法を発見しました。用意するものは簡単です。台所用の中性洗剤とスポンジ、そしてアリが入り込んでくるところから続いているアリの列です。
ゴキブリに中性洗剤をかけると気孔をふさぎ、窒息死させることができると聞きます。またアリは偵察部隊が残したフェロモンをたどって餌場までいくと聞いたことがあります。そこでこの二つを組み合わせたわけです。抽選洗剤をしっかり泡立てたスポンジで、おそらくここから入り込んできていると思われるポイントからアリの行列をそのスポンジでサーっとなぞります。もちろん侵略者たちは死んでしまいます(ごめんなさい)。そしてしばらくその泡を放置しておくと、まあ、見事にアリのすがたを見かけなくなります。
こうして侵略者に対する大虐殺を完了させ(ちなみに侵略途中では水攻め、コロコロでプチプチつぶすなど様々に命を奪いました)、また次の年を待つのです。
さて、どうでもいい話でしたがこれを少し学問的な話に結び付けてみましょう。
文化人類学的にこのアリの侵略について説明します。(文化人類学は社会学と考え方がたいそう近い学問ですが、思考や研究の対象となるのが異文化、や異なる社会になります)
なぜ私はアリを「侵略者」と考えたのでしょうか。
答えは簡単です。アリが家の中に入ってきたからです。外にいるアリを虐殺したりはしません。
これはつまり、私が、「アリは家の中にいるものではなく、家の外にいるものなのだ」と考えているということになります。
すなわち、アリが私が想定している家の中/外という境界線を破ったのです。私たちは世界の様々なものに対してこうした概念上の境界を引き、世界を秩序だてています。この秩序が破られる、あるべきものがあるべき場所にない、境界が乱された、ということ、これがアリが家の中にいることへの気持ち悪さなのです。
(この家の中と外という概念上の境界は日本人にとってわかりやすいでしょう。家の中を土足で入ることにすごく抵抗がありませんか?)
さて、少し納得してもらえたでしょうか。もう少し知りたいという人は『人類学のコモンセンス』という入門書にこの境界の話がもっとわかりやすい言葉で説明されています(もともとこの境界の説明でなぜユダヤ人が豚を食べないのか、という問いに答えたのが『汚穢と禁忌』という人類学の古典的名著です)。
もし文化人類学に興味をもって学びたいというのであれば、わりと多くの大学で学べますが、「専攻」できるところはあまり多くありません・・・ただ国公立ではわりと充実しており、北大、千葉、埼玉、大阪など中ゼミ社会学系の人気校でもかなり専門的に学べるところがありますよ。
気が付けば6月ももう半ば。あっという間ですね。
最近面談をしているとずいぶん疲れたり不安になったりしている方が多いようです。梅雨時は日照時間が少なくセロトニンが出なかったりむしむししてだるくなったりしてしまう時期ですから仕方ありませんが、そういう時はうまく気分転換をしてやる気を出してくださいね。「不安になるのはしょうがない、じゃあこうしよう」、と積極的な行動にうまく変換していきましょう!

梅雨に②

梅雨に②

遅くなりました赤い実です。
バタバタしているうちにあっという間に時間が。
梅雨のうちに続きが書けそうでよかった。
昨日のフェアにはたくさんのご参加ありがとうございました。
有意義なアドバイスは得られたでしょうか。
思いを新たに新しい気持ちで勉強に励めることを期待します。
さて続き。
大阪のいわゆる「君が代条例」の件です。
前回は「強制という暴力」による「当たり前の崩壊」についての話をしました。
君が代を起立して歌わないことで傷つくものは何か。
たとえば「愛国心」や「伝統文化の尊重」だとします。
愛国心とはその名の通り自分の国を愛すること。
愛することとはその対象のためになることを考え、それを実践すること。
信念を持って子供たちと接し、豊かで明るい未来を広げてあげたい、
そういう気持ちで教師となった人々を、
命令や罰則で縛り、それを子供たちに目の当たりにさせることが、
果たして国を愛する心につながるのでしょうか?
伝統文化の尊重とは日本の昔ながらの良さを、
「世界的な」人間として世界に発信していくこと。
一方的な管理体制によって自由を奪われた中で、
その良さを発信する役割を担う力を、
日本人が培うことができるのでしょうか?
やはり、わかりません。
なぜ、
強制し罰し、
当たり前の幸福を奪い、
崩壊させなければならないのか。
前回の①からこれまでの間、大阪府知事の新たな発言に触れました。
これからの時代、日本以外のアジアの人々が日本で教壇に立つ日が来るかもしれないが、
彼らにもそれを強制できるのか、という質問に対してです。
「誰がそんな人を採用試験に合格させたのか聞きたい。」
私も聞きたい、と思いました。
なぜ、あなたが・・・
このぐらいにしておきましょう。
国際化が進み、そのあり方も隅々まで問われる時代、
人の上に立つ人間がそれに逆行する行動をとる国であることに、
溜め息が止まりません。
学問の道を進むみなさんや関わる私たちは、
得た知識や経た学問の道筋を踏まえ、
警鐘を鳴らす役割を担うと共に、
新たな時代における「鳴らし方」を、
考えていかなければならないのかもしれません。
ふー、書ききった!
さて、メールでもお知らせが行っていると思いますが、
明日から自習室の開室時間が早まります!
試験が近い人もいると思います。
是非朝方目指して勉強のリズムを作っていきましょう!

Boys, Be Ambitious!

Boys, Be Ambitious!

boys, =少年よ、
be = いる,あるのbeの命令形。あれ、いろ、とかそんな風な
ambitous= 野心のある、大きな望みを抱いている、
ということで、boys, be ambitious! 少年よ、大志を抱け!
の言葉がだけがわりと一人歩きしている感もありますが、これはクラークさんというアメリカ人が明治初期の日本にやってきて教鞭をとり、日本を去り際に残されたという風に伝えられています。
そしてその彼が教えた場所が札幌農学校、今でいうところの北海道大学です。
そんなわけで社会学系編入大学紹介シリーズ、今回は北の名門、北海道大学の紹介です。
北海道は沖縄と並び地方都道府県の中では抜群の知名度を誇ります。知名度といってもその名前を知っているというだけではなく、その県名を言われたときにどれくらいその場所についてのイメージが膨らむか、といった点での知名度ですね。山形とか島根とか、名前を聞いてもぼんやりとしたイメージが抱かれない県民からすると大変うらやましくあります。毛ガニや生キャラメルといったおいしいものから、ラベンダーのお花畑といった本州では目にしないような美しい光景と大自然・・・・
そんないいイメージにあふれた北海道の道都に誉れ高く存在しているのが北海道大学です。泣く子も、いや授業料を出し渋る両親もだまる旧帝国大学の一つ。旧帝大で社会学の3年次編入を実施しているところはほとんどないのですが、そんな数少ない貴重な機会を提供してくれているのがこの北大になります。(他は名古屋と大阪)
さらに北大に社会学系で編入したいと考えている人にはもう一つうれしいお知らせがあります。実は北大を志望する場合、社会学系なら二つの学部を狙っていけるんですね。
一つは文学部、もう一つは教育学部。
うん?教育学部?と思われた方もいるでしょう。
教育学部の中で教育社会学を研究することができるから、ということなんですね。
だから携帯やインターネットなどの新メディアとメディアリテラシー教育、といったテーマや登校拒否児童とフリースクールといった教育に関連する社会学をやりたい人にはかなりおすすめのところになります。
これまで合格された方は、成績そのものよりも熱意のある熱い方が受かられているという印象ですね。受験を考えている方は、松岡修三なみの熱さを出せるようにしておいてください。
もう一つの文学部のほうはスタンダードな社会学になるのですが、受験科目がちょっと厳しい。
外国語(英語)に加えて、専門を二科目選ばなくてはならないんですね。でもってその専門は社会学以外は哲学、歴史学、言語・文学という選択肢になります。
去年の中ゼミでは文学部の方に社会学系から一人、哲学から一人の合格者が出ました。どちらの方も社会学の授業と哲学の授業をとっており、どちらの方も哲学と社会学に興味があるという方でした。
そういう意味で、受験科目としてはちょっと厳しいけれど、哲学も好き!という社会学系の人にとっては願ってもない大学になります。
また、面接では「どうして北海道?」ということを聞かれる場合があります。もしこのブログを読んでいて北大受験を考えている人で、本当に北海道が好き!という気持ちがあれば、迷わずそれもアピールしましょう笑
『北の国から』を小さいころから見てて憧れて・・・というのだといまいちですけどね
まとめると哲学や他分野の知識も手堅くまとめられる優等生タイプのあなたは文学部、まじめだけれども個性が強く熱心さをアピールできるタイプのあなたは教育学部
を受験されるとよいのではないかと思います。
また受験と旅行を兼ねて北海道のおいしいもので食い倒れてくるのもまた一興。北大の入試は9月と少し早目ですから、興味を持った人はなるべく早く自分でもいろいろ調べてみてくださいね。
さてさて地方国立の一回目は北に行きましたから次はそのまま南に下がってこようかな・・・

梅雨に①.

梅雨に①.

こんにちは、赤い実です。
梅雨に入り、湿気との戦いの日々が開始しました。
皆さんの中には髪の毛の変化で湿度を感じる人も少なくないでしょう。
それが実用化されているのを知っていますか?
実際の人毛を使用して湿度計にしているのです。
黒髪より金髪のほうが繊細で敏感に反応するため、
この湿度計には金髪が向いているそうです。
そんな雨の季節ではありますが、
この時期に運動会や修学旅行を実施する学校が結構あります。
人によってそういう学校の行事がわずらわしかった人もいれば、
楽しみだった人もいるでしょう。
思い出すたび、苦味・甘味がよみがえることも。
とにもかくにも、学校という場は誰でも必ず人生で関わるところであり、
そこは子どもにとって安全で快適で、
誇りを持って生きる大人がいる場所であってほしいものです。
学校で実践されるものは当然教育です。
その教育の質が今以上に脅かされる事態が、
複数進行しています。
1つは震災と原発による影響。
もう一つが大阪でできた「君が代」条例です。
今日の焦点は後者。
この問題は大阪だけでなく東京でも様々な形で問題となっていることです。
そこでは「愛国心」の問題や「憲法」、
「君が代」や国旗に対する解釈の問題が相互に絡み合っています。
それぞれについて自分の意見を主張し、賛成か反対かを論ずることもできますが、
今日はそこからちょっとだけ外れて考えてみたいと思います。
ポイントは「強制される」という点です。
もちろん、憲法の自由権や基本的人権と無関係ではいられませんが、
極力それらの言葉は使用しないで書いてみます。
それは言い換えれば「当たり前の崩壊」ということ。
何かをする時、それが自分にとって「したいこと」であり、
誰かや何かをを「傷つけない」のであれば、
それは当たり前にできるはずです。
例えば着たい服を着る、食べたい店を選ぶ、読みたい本を買う・・・
無数にあります。
そこにはもちろん「したくないことをしない」ことも含まれます。
逆に考えていきます。
君が代を起立して歌わないことで何を傷つけるのでしょう?
もしあるとすればその傷は誰が・何が、
どんな風に被るのでしょう?
続きは次回に回します。